創作学についての説明③

この世界に間違いも、正解もない。

それは一種の、創作学における真理である。

しかし、人達はこの世界に正解を求め、間違ってることは悪いと思ってしまう。

それは確かに必要なこと。しかし、それは、創作の分野に於いては許される。自分の心の中、一人の空間だけでは、否定しなくていいんだ。

否定だけではなにもうまれない。肯定をすることで、新たな道へ進める。

二元論だけでなく、この世界には、多くのことが存在する。

僕は今日、あるアニメを見た。最初はそんなでもないだろう‥と思っていた。

しかし、1話、最後までみて印象がガラリと変わる。自分が求めていたものの多くがそこにあったのだ。

人と同時に、アニメにも諦めかけていたところがある。

しかし、こうして、暗闇に落ちそうだったところをしっかりと手を握って拾い上げてくれた。

最後までみて、僕の思っていたことが、多くあって、求めていた理想は間違ってないって教えてくれた。

全く見たことはなかったが、これほど、最近のことで、いいと感じたものはなかったのだ。

もちろん、みかえしたら、それはうそのようになくなってるかもしれない。2話以降見れば、事実ではなかったと感じてしまうかもしれない。

しかし、こころの中に感動があった。こんないい作品をつくってくれてありがとうと‥。

1話ながらも思った。

そんなことがあったからこそ、言いたい。自由想像。それが何より大事だ。

それは間違ってもいい。思いついたら、大事にとっておいてほしいのだ。今はつかえないかもしれないし、全くなにも役にたたないことであるかもしれない。

しかし、それは、誰かを感動させる可能性がある。誰にかにとってとても大事なものかもしれない。わかりやすく、学問に通づることである可能性だってある。

そのあなたにしか手に入らないかもしれない大切なものを、捨ててしまったり、否定してしまうなんて悲しいことじゃないか。

 

しかし、日本には、行動すること、を求めるものが多いだろう。だが、それはすべての人間が出来ることじゃない。

僕自身、行動はほぼできない人間だ。変わってない欲しくないすら思ってる。

だからこそ、想像性をはたかせる。行動せずに語ると、過去で言えば、ソフィストなどを浮かべるだろう。

だが、ソフィストはすべてが悪かった訳じゃない。事実ということにより、色々な考え方をとなえた。

今の学問があるのは、そういう人間達のお陰であると勝手に思ってる。

行動できない人は、行動できる人で、想像性を求めてる人と関わって、無理に自分に反したことはしなくていいと思うんだ。

向き不向きをするよりも、色々想像をはたらかせ、面白いと思うことを考えて貫いていくほうが、色々な考えがうまれるかもしれない。

その自分が考えたことを、面白いと思う人がいるかもしれないから。

ただ、ルールは必要だと思ってる。自分の心の中や、誰にも見せないノートでは自分の考えを肯定していいけれど、現実では、そのルールに則って話す必要がある。

これは創作学について、必要なこと。想像の上では自由だが、人を解する場合は、注意しなければいけない。

パクリはいいのか、と言う話にもなるが、パクリは矢張り、考えの中ではいいと思う。

実際にそれにより、人を解する場合は問題になるが、パクることによって、その本来のものと、自分のものを見比べることによって、自分らしさっていうものや、新しさというものを発見できる。

それを積み重ねていけば、いつの間にかそれらを拾い上げることにより、自分だけの独創性あふれる作品ができるかもしれない。

創作において、絶望は無限にあるが、希望も同時に無限に存在する。

ゆるしの学問であるからこそ、苦しいときは思い出してほしい。この世に、喜びがあってもいいのだと。

アビリーンのパラドックスという悲しいものがある。それは、相手はこう思ってるのだろうとみんなが思ったことで、悪い結果になってしまう悲しいものだ。

しかし、創作学のように、答えが複数あってもいいと思えればどうだろう?単一の思考が正しいのではなく、色々あってもいいと思える。そんな社会になれば、心の面で苦しむ人がすくなると思うんだ。

僕は創作学が、新しく人を救う学問になることを信じてる。

まだ続きますが、今回はここまでで。