新しい学問について

こんにちは。

タイトルでは学問!と書きましたが、そんなに堅苦しいものでもないです。

その人が自由に考え、自由に自分の道を進んでいく。

それができるような道を作りたいな〜と思った気がして考えたり、有名な人のを参考にしてなるほど〜って考えたり‥なんで思いついて作りたいと思ったかは分かりません。

しかし、この考えは、どんな時代、どんな世界であっても不変的で重要な考えだと思っています。

前に書いたことの繰り返しになってしまいますが、僕が作りたいのは“創作学”です。

創作学とは何か?

その名の通り、物語の世界、存在しない世界を学ぶ学問です。もちろん、存在する世界を学んでももちろんいいですし、逆に学ばなくてもいい。自由な学問です。

とりあえず、さっき思いついた利点を踏まえて創作学について説明していこうと思います。

①新しい意味の付加

共通認識とされていることっていくつもあるじゃないですか。例えば、現実と非現実とか。現実にないことを非現実と言うのだと思いますが、アニメとかって本当に非現実でしようか?夢の中って本当に非現実でしょうか?

存在してないから現実ではない。とも考えられますが、実際に目に入ってる、頭の中にあらわれてる。それなら、現実ととらえてもいいんじゃないでしょうか。では非現実とは何か?

縄文時代に住んでた人。その人が、携帯のようなものを浮かべていたか?存在していたか?

ある可能性もありますが、基本的にここでは“ない”ととらえます。完全に夢の中ですらも登場してない世界。それこそが非現実なのではないでしょうか?

辞書には一つの言葉に複数の意味がある。なんてことが沢山あります。新しく作ってはいけないなんてことはないと思います。ただ、頻繁に変わるといけないので、このような“創作学”によって新しく考えていく。絆がいい意味になった例もありますし(姑息など逆もあるが、創作はあくまで理想を目指す。)

僕の昔考えていた悪口良意味計画(そのまま悪口をいい意味に変える)にも繋がる話で、創作学の大事な要素の一つだと思います。

②仮説の保護

これは新しい考え、見方の提供みたいなところでもあります。すっごく面白い仮説ってあったりしませんか?

だけど、真実が分からない、間違ってたら、それって中々残りにくい。有名人が言ったことなら残る可能性はありますが、基本的に残りにくいでしょう‥。

だからこそ、それを残したい。次に書くことで更に強く言いましょう。

③間違いの保護

天動説、万物の根源の会話。それって、大体は間違ってるでしょうし、今考えたら結構違うところはあるかもしれない。けれど、例え間違いだとしても、存在していいんです。否定する必要なんてない。

創作であれば、どんな考えでも存在できる。そう信じてます。

学問の、ある分野では間違いとされていても、他の分野では正解となるかもしれない。もし、それがなくても、創作という分野では、それが正解になる。

どんな考えでも存在していい。それが創作の偉大さであり、深さです。

もちろん、どんな考えでも持っていいのか?という話もあります。僕はその問題に対して“自由”とは何か?を考えました。

その答えは全てが同時に存在することだと思いました。肯定意見、その反対の意見同時に存在していれば、問題はないんです。逆に否定派とならず、自分の考えを肯定できれば‥。それができる空間。それこそ、創作。つまり、創作学です。

④多くの意味を色々な側面から

一つのものには一つの意味。そう思ってしまいます。しかし、同時にいくつもが存在していい。逆に、一つの考えに対し、違う見方をしていたのなら、それは逆に価値になる可能性もある。創作的見方を、学問にも適応してみたり、所謂、“常識”というものや、絶対的事実に対して、いくつもの見方を許してみる。

それも、創作の重要な要素だと思います。新しい発見ができるかもしれません。

⑤自分にとって都合のいい意見を

都合のいい意見といえば、悪いイメージをもたれてしまいますが、これは自分にとっての理想を目指すというところでです。

学問が好きなら、心の底で思ってる、自分の欲しい情報を探してみましょう。カラーバス効果で見つかるかもしれません。(見方がその方向だと思うので、くっつきやすいのではと。お互い、いい部分で補いあう学問と創作の協力です。)

⑥他者への感情依存を減らす。

そもそも、創作は物語とか、自由にできる世界です。けれど、現実と呼ばれてるこの世界は自由ではありません。期待したけれど、上手く行かないこと。沢山あります。

人を信じて、形はどうであれ、裏切られたとか。(有名人などに対する理想像も一つだと思いますが‥。)

だからこそ、自分のことを本当に分かれるのは他人ではなく、“自分”であるということです。物語にして、自分にされたら嬉しいことを自分でしてあげる。

ある有名な人がこう言いました。利己的な人は自分を愛せないから利己的なのである。と。どういう意味で言ったのかは分かりません。

(※自分の解釈でいいます。)

けれど、相手に申し訳ないことをしたって時、悲しい気持ちになりませんか?悪いことをしたという部分を重要視してしまう。

自分のことをちゃんと見つめられる人は、人もちゃんと見れる。そう思っています。

そして、他者への感情依存は他にもあります。相手に悪いことをしたって時、悲しい気持ちになりませんか?

悪いことをした‥って。相手はそんな気にしてなくても、ずっとそれがつきまとう。

重要なのは、悪いことをしたって罪悪感をもつ事ではなく、相手の喜びを願うことだと思います。その人にとって、悲しいことがあったのなら、いいことがあって欲しい。それを願うのは大切なことだと思います。

利己的な人は自分を愛せないから利己的なのである。という名言があります。この言葉の真意は分かりませんが、自分の解釈で、悪いことをした‥って反省ばかりしてれば、相手を許すことが難しくなってしまう。(自分が悪い気持ちになってるのに相手はなんで‥みたいな)そんな気がするんです。

だからこそ、より良いことをのぞむ。それが感情依存を減らすことの一つだと思ってます。

それから、感情依存にはもう一つあります。(これでこの内容は最後にします。)

反対意見が必要ということ。

これは相手に依存しなければならないと思うんです。自分が意見を持ってるということは、他人がその逆に意見を持たなければならないんです。

お笑いで言うボケとツッコミの関係。片方しかなければ成り立たない。依存関係と言えます。

だからこそ、創作の考え。有名なアニメでは、悪役と、正義の役があります。勧善懲悪は古いとは言われてますが、抽象化した時に現れる真反対のものが存在できる関係。このことが重要です。

2つの考えが同時に存在する。それは真反対の二人が共存していいということであり物語の世界ではよくおこることです。嫌な気持ちになったときは2つの考えを同時にもてる創作が重要だと思いました。

感情の依存。それが少なくなれば、より良い世界になるのでは‥と思ってます。

⑦悲観以外の見方の肯定

上でいくつか例をあげましたので、同じようなことを書きます。

馬鹿や、頭が悪いと言われて傷付いた経験はありませんか?

僕は覚えてませんが、あると思います。

だけど、それが、もし、存在していいなら逆に反対の考えも存在していいのでは‥?が大切だと思います。

悲観なことでさえも、あり得ないとなるんです。毎日のように明日地球が滅びるとおびえてる人がいます。

けれど、滅びなかった事実がある。滅びない事実が同時に存在していい。

それこそ、僕が同時存在の許容と呼んでいる考えとなります。

例え、ありえないことであっても、同時に存在していい。ある意味で“優しさ”だと思ってます。

全ては肯定できる。

もちろん、反対意見でも、否定する必要なんてない。同時に存在していいと認めること。それはある意味で、選べることであり、選ぶことではないとも言えます。

⑦はここまでにします。

創作学にとって大事なことは“許し”です。多くにまざってたかもしれません。

僕はこれから、そして、昔からもずっと必要だった考え。それはこれなんじゃないかなと思います。

学問とともにいいところでお互いを補い進んでいく。目指す世界は違く見えて同じ。

それはきっと、理想の世界だと思います。

とりあえず、ここまでで終わりです。