慣用句や、故事について

今回はこれについて僕の創作を交えながら語って行こうと思います。

(一応違うものだろうが、ここでは、便宜上、ことわざ=慣用句にしてる)

慣用句についてどう思いますか?

僕はとてもいいものもあって、悪いものもあるように思います。

それはある意味で、人間的だな〜と。

もちろん、いいものが沢山ありますし、慣用句がいいのは当然だからということで、敢えて、否定して見ようと思います。

もちろん、こんな慣用句は要らないとかの否定ではありませんが

慣用句自体はいいんですが、逆にそれがあることで悪いことになってしまう。

その可能性も否定できないので、だからこそ、逆にそのことわざの反対の言葉も存在していいんじゃないか?というのが僕の提案です。

もちろん、ことわざとして成り立たせるのではなく、自分の考えとして存在させること。それが重要だと思っています。

考えることは自由なんて言葉がありますよね。

都合の悪い言葉は消すか、新しくそれを反対する言葉が出てこない限りは残り続けます。

この世には絶対的な真理はない。

そんな話を聞いたことはありませんか?

何故、慣用句が絶対的に正しいことになるんでしょうか?

だからこそ、慣用句の否定ではなく、新しく真逆の考えが同時に存在していいような価値観が必要だと思うんです。

都合の悪い意見はなくなるまで永遠に否定しなくてはならない。

そんなの不可能だし、絶対に無理なんです。

だからこそ、相手の考えが存在していいなら、自分の考えも存在していいという価値観を。

それは例えば、一度切れた縁はなおらない。みたいなことわざがあったとしても、実際、それが絶対にそうかと言われたらそうとは言いづらいんです。

僕は子供の頃、絶交と言われて、何度も友達に戻るを繰り返されて。

本当にそうかと思いたくなるような出来事がありました。

そんなに深く執着してたりせず、普通に過ごしてたら自然と仲が戻ったり、また仲良くなれるなんてことも可能性的には充分あります。

これはつまりは、一度切れた縁は確かになおりづらいが、絶対にそうとは限らないということです。

なおることもある。ただ、執着せずにいられたら。

名言にも言えることです。その考えは存在していいが、真逆の考えも存在していい。

何かを否定する必要はないんです。

新しく作り出せること。人間に大事なのはきっと創作性だと僕は思います。

ことわざや、慣用句自体にも、対義語というものはありますし、慣用句とかそういうのとして残らなくても、その人の中には存在していいと。

ある意味で、創作とは優しさであり、人を自由さに導いてくれる偉大で心の広いものであると思います。

人生は苦しい、生きるのは大変だ。そういう考えもあっていい、そして、それは同時に人生は楽しい、人生は楽だ。そういう考えも存在していいんです。

全ては肯定できるということなんですが、矢張り、慣用句、ことわざがなんのために残ってきたか?

それがわからなくなりませんか?

でも、これがあることによって、印象が強くなる可能性もあるんです。

例えば他でも言った天動説と地動説など。

天動説がなければ、地動説の印象ってあまり薄かったんじゃないかと思うんです。

間違いがあるからこそ、地動説という真実はさらに色を増す。

慣用句、ことわざもその色をおびてると思うんです。

本当にいいなと思うならそれを大事にし、嫌だな‥と思うものは他人に危害を加えない範囲で都合のいいものにする。

ことわざや、慣用句との付き合いではこういうことも大事なんじゃないかなと思います。

理想的な関わり方ができるといいな。

ここまでで終わりにします。