最近嬉しかったこと

今、考えてみると、いいこと沢山あったな思って、それを書いていこうと思います。

まず、一つ目が、ゲームで、嫌なことばっかり言ってた人が落ち着いたこと。

これはちょっと嬉しかった。気になってたんですよ。悪いこと沢山書いて。少し落ち着いて欲しいなと思ってたんです。その人のためにもならないでしょうし。ここは本当ありがたかったなって。空気的にも

2つめはゲームである人が気を遣ってくれたこと。

これはちょっとありがたかった。その気はなかったならごめんなさいですが、待ってくれてたんですよ。

勝っていいよと思ってたんですけど。あの人優しいなって笑

全然そういう人とは思ってなかったからありがたかった。(負けず嫌いみたいに書いてたところもあるのかもですが‥。そうだったらごめんなさいですが。)

3つ目、純粋に自分が相手の気を遣おう思えたことです。自分より弱い人だから勝たせてあげたいとか。僕は本当に負けず嫌いなので、人のことを考えられてなかった。だからこそ、勝つことに執着しすぎてたとも言えますけど。ここが成長してたところではあったとも思うので良かったなって。気持ちは大事ですよ。

4つ目、よくよく考えてみれば、僕っていい状況にあるな思ったんです。自分がしたいと思ってるところにはなってるし、少し求めすぎてるところはあるが、いい状態だなって。心の問題と、運の問題もありますが、周りにいてくれる人には感謝って思います。

5つ目、娯楽が楽しい笑 これは特にアニメとか漫画とか、学問系のテレビとかです。なんか、前まではつまらないな‥とか見たくない嫌だみたいに否定的に思ってたんですけど、改めてみるといいものたくさんあるって言う笑 名作や、本当に隠れたところにいいところあるなみたいなのも多くて。これはマジありがたい‥。

6つ目、それは、言葉です。悪い言葉のはずなのになんというか、標語とか真実みたいなよくわからないものになってるのありませんか?僕の場合は女子の敵は女子って言葉だったんですけど、それは偏見だって言ってる人が居てちょっとありがたかった。考えてはなかったんですけど、改めて考えてみると確かにそのとおりだって思います。こういうのって僕的にちょっと嬉しい。

7つ目、全く何もできない状態になってたんですけど、少し払拭されたなって気がしてるんです。今。もしかしたら、こうして、ブログを更新してるからかもですが、悪い状態から少しずつ変わってるところがあるのかもと。小説もかけなかったですし。良かったなと。

他にも沢山あるんですが、とりあえず今回はここまでで!

稚拙、恥ずかしいを肯定する!

僕はどちらもすごく気持ちあるんで、逆に肯定しようと思います。

こういうのって悪い感情とか、悪いことのように思えるじゃないですか?

でも、わかりやすいって捉えられて、逆にいいことのようにも思います。

恥ずかしいについても、僕は中立主義って考えを思っていたんですが、悪いことについても、恥ずかしいの感情で止められたら理想的に思うんです。

例えば、泣くのは(声を出さず)恥ずかしいとか、こんなことを考えてたら(子供っぽいこととか)恥ずかしいとか。

明らかに悪いことしたり、怒って不快にさせたりよりかは大分といいし、被害が少なくていいようにも思うんです。

人間は悪いところを作らないといけないようにも思うんです。

それをなくすことはほぼできない。

それなら、上記のように、意外と被害がないようなことをその感情を感じながらもやっていくことが理想的なのではと思うんです。

稚拙だからこそ、見える世界もあるし、子供っぽいからいいところもあるはずです。

恥ずかしいだって、自分の意見を言うとか恥ずかしいところはあるでしょう。

逆に悪いところがあるからこそ(恥ずかしいという)、できるところはあると思うんです。

僕は、逆に、そういう世界を突き進んだり、新しい世界をと思っています。

その中には、きっと、見えてないいい世界があるはず。

僕はそう思っています。

ここまでで終わりにしますね。

民主主義と独裁!

今回はこのことについて、創作を交えながら書いていきます。

最初に言っておきますが、僕は全く知識がありません!なので適当なことを言います。ご了承を!

そして、理想を目指しています。

まず、独裁について語りますが、これは理想的には思えません。

というのも、一人の人が全てを決めてしまう。そんな状況は、矢張り、一人の人に都合のいい世界になりやすくなってしまう。ように思うんです。

それはあまり望ましくない。

もちろん、考えようによってはより良くなるところはありますが。

そして、民主主義。それも現在あまり理想的とは言えないような気がしますね。

色々意見があって決められないとか。

問題も多く抱えているように思います。

ただ、2つのことに共通して言えることがあると思うんです。

それは何か?

創作性が重要だと言うことです。

創作性とは何か?僕は物語一つでは語れないそれだと思っています。

それはつまりは、すべてがあわさることによって、すべてが正しいことになる。

人の価値観が変わればいい。そう思ってるんです。

それはつまりは、自分の理想とは何か?それについて深く考えることが大事なのだと思います。

それは昔にこんな人がこう言っていたとか、こういう考えがあるんだから君は間違いだとかせず、理想とは何かをそれぞれの人が考えられる状態だと思うんです。

考えてみてください。

どんなに意見があったとしても、自分にとってスッキリする意見、そういうのって、探しても見つからないし、あったとしても、少しだけ違ったり深く突き詰めていけばガッカリすることだってある。

だからこそ、自分の意見を作ること。

人それぞれが理想を目指すこと。相手の批判はせず、理想を目指すこと。

それこそがより良い民主主義を作るために必要なことのように思います。

全ては正しいこと。

そうであれば、自分の意見って言うものは作りやすいはずです。

差なんて作らなくてもいいと思う。

あくまで相手のいいところは見て、自分のいいところも見て、そのいいところ同士を重ね合わせていけば、民主主義っていうのはいいものになるはずです。

だからこそ、僕は創作的価値観が必要と思っています。

頭固くなりすぎず、理想を目指していける。

そういうのって、色々なところでのぞましいことじゃないですか。

クレーマーだって、態度が良くて、意見をするみたいな、あまりに嫌なふうにして来なければより良いものになると思うんですよ。

難しいですが‥。

そして、独裁についても。

矢張り、一人だと暴走しやすいところがあると思うので、創作による独裁が大事なんじゃないかなと。

創作による独裁はそもそもが創作というものは中立性を持ったものなんです。

全ては許容され、全ては正しいこと、全ては間違えていることにもできる。

そんなものなんです。だからこそ、中立性をもてる創作による独裁みたいなのが理想的ではないかと思います。

もちろん、創作はものを言いません。

しかし、無責任なことは言わない。

全ては平等に許されているから。

創作はすべてを許すことだというのを意識し、創作的思想な人がトップに立てれば理想的な世界になれる。そう思っています。

僕自身、創作性を持った人ではないので、とても難しいことですけど、そういう人がいたらいいなと思います。

だからこそ、独裁はあまり理想的じゃないのでは‥と思ってしまうところもある。

独裁であっても、任せるところは任せるとか、創作性を許すことは必要なのかもですね。

僕が考えてるのは、自己の独裁、自分一人の独裁を作ることなんですけど。

創作性が重要ですから、多くのことを自分の中では許せたらいいなと。

これから理想の世界になればと思います。(これは本当に望んでいる笑)

ここまでで終わりにします!

将棋について

最近、何故か、めちゃくちゃハマってるので話していこうと思います。

僕の実力は大体将棋ウォーズ初段、クエストは1級〜初段(今は1700くらい)で、すごい強いわけじゃないんですけど、対戦するのも見るのも好きだなー思ってます。

オセロが好きだからというところもあるかもしれませんが、もしかしたら、有名棋士のブームとかに乗っかったのかもですね。(3月のライオンとか将棋漫画も面白いの結構あります。)

対戦の話で言うと、僕は升田幸三さんが好きだなー思ってます。仲良くしたいとかじゃなく、持ってる目標みたいなところ?そういうのが凄いなって。(最近、創作の名言あって、びっくりしたところもあります笑)

将棋って、9×9で意外と狭い世界なのに、一人一人、個性があって。守りが強いとか、攻めが強い、詰将棋がどう、厳しい一手や、惑わす手、将棋って奥深いんですよ。個性があって。

特に、必至とか、詰将棋とか、それだけやるだけでも楽しい遊びになるし、詰将棋はとても奥深いんですよ。

もちろん、よくわからないルールもありますが(無駄な手は省かれるみたいな)、本当にこれしかないみたいな手で、抜け目がない、完璧だって詰将棋やってみて気付くと。凄いなって思うんです。

作者の方。本当に気を配らないとあんな素晴らしいものできない思う程。美しいし、芸術的。って勝手に思ってます。

もちろん、余ってたりとかも良さはありますが、考え抜かれてる詰将棋は本当に凄いなって。

僕はその詰将棋が好きなんですが、対戦しても楽しい。

特には、意味のわからないところでどう指すかで今後が決まる。

そんなとき、自分の判断に委ねられるんです。形勢判断とかもありますし、一手で盤面が大きく変わることもある。

劣勢になってても、まだまだ挽回できる可能性あって、どうなるかわからないって本当に言えるんですけど。

将棋の面白さはそこにある気がしました。

多分、気づいたのは、凄い妙手を繰り出した天才と、前に書いた、升田幸三さん。

升田幸三さんの新手一生(間違えてたらごめんなさい)って言葉素晴らしいですし、探究みたいなところもいいなって。

大山康晴さんとのライバル関係や、言葉も素晴らしいですし、前にも書いたとおり、個性というものがある。

81程度の少ない世界であるのに、その中には無限の可能性というか、凄い沢山の物語的なものがある。

それが本当に将棋の面白いところだなって。

いつの間にか勝つこと優先させてしまいますが、そういう、過程的な面も大事だな‥と。

将棋あつくなりすぎると、嫌になることもありますが、とても面白いゲームだというのは変わらないかなと。

コンピュータも出てきましたが、矢張り、人間には人間の良さがあるのでそこを全面に押し出した将棋ができてればいいなと。

コンピュータが導入されたからって、人間の良さは変わらないですし。

まぁ、とりあえず、対戦についてはここまでにして、見る将棋について語ろうと思います。

やっぱり、名局は素晴らしいなと。普通の手じゃないものが繰り広げられてる感じで、更には凄いよみが入ってる。

プロ同士の対戦で思うのはそういうところ。やっぱり強いな‥と見てて思います。

名局と言われる対戦や、変遷、時代によって流行が違ったりとかその中にある物語、うまれた名言。

ライバル同士の対局。面白くて何時間でも見れてました笑

将棋は日本のいい文化だな‥と。

逸話だったりもすごいし、将棋界という小さい世界なのに、凄い個性が溢れてて、物語的で凄いなって思います。

最近出てきた方も本当に強いし。

なんか、ずっと続いていきそう‥思います。

けど、まぁ、不安なところとしては、理想が現実になってしまった場合‥。

どうなるんだろうなと思います。

未来のことはわかりませんか。

しかし、棋士って、改めて凄いなって。将棋に対する姿勢も、性格もなんかいい印象強いし、強くて姿勢が素晴らしいって笑

憧れるところはあります。

そして、棋士同士のドラマ笑

なんか、ライバル的なものが決まってたんですけど、色々なライバルが出てきて、最終的には無敵レベルの人が出てくる。

なんだか、本当に物語の世界のよう。

物語が影響を与えているのか、現実が物語に影響を与えているのか。分かりませんが、とても面白いなって。

これからも機会があれば将棋みたいな!笑

ここまでで終わりです!

現在の問題②

女性との関係、苦しいし、相手に迷惑かけてないかとか気になる。

更には、悪いことしたなとか罪悪感沢山あるし、問題がそのままになってると、嫌なことばかり考えて、いつの間にか、嫌なことを相手にしてしまってると感じる。

最近もそうなんです。

長く一緒に居た人と僕の方から仲を切ったことが沢山あるんですが、長く一緒に居たからか、また一緒に居たいと思う。

だけど、相手はそんな気はない。

そして、なんであんなことをしたんだろうとか、忘れてしまったら、もう一度とバカみたいに進んでいく。

だけど、変わらない。

僕は一度、今までのことをリセットするために、物語を書きました。

自分の居やすい場所、それは現実には中々なくて、それを作るには矢張り時間がかかるし、いくつかの欠陥がある。

だからこその物語だった。けど、完全にはまれることはなく、喜びはあるが、その欠陥がある世界でした。

しかし、自分にとっては理想的であったんです。

だけど、それも続かなかった。

自分の問題はあれども、近親者に、こう言われたんです。世界に恥を晒すなと。

都合のいい世界じゃないとか。悪いことを考えるほうがいいとか。

意味が分からない。じゃあ、僕らはなんのために生きてるんだよ。って、その時思いました。だけど、否定されるのは本当に怖かったんです。

僕の好きな世界だから。どうでもいいことって言ってるけど、それは他人にとってであり、自分にとってはすごく大事なものなんだよ。

命をこめたから。

だけど、それも続かなかった。好きな世界だったけど、言葉が思いつかなかった、否定されるのが怖い、他の問題が目をそらさせる。

それらの問題が、僕を襲ってきた。

少しはやってるが、全然できなくなった。相変わらず愚痴や、悪口は変わらない。

なんなんだよ。理想的なそれを目指すこと。人生とはそういうものだろ。

意味のわからないルールや、意味のわからない考え、それになんで従わなければいけない。

毎日のように人は死んでるんだ。それなら、みんな毎日楽しんではいけない、悲しいんでしかいけないって話になるだろ。

楽しいと思って生きてる人は偽善者と言うのか。それなら、生きてる意味ってなんなんだよ。

お笑いというものは良かった。だけど、そればかりが出るのは問題だった。

差別や、真似によって、関係性が悪くなれば理想的ではない。

お笑いに匹敵する、いいものがあれば、権力集中など起こらなかっただろうし‥。

ハマるものが、それ(今あるもの)優位になってしまってるのはどうなのかとも思う。

ドラマについてもそう。自分にとってつまらないものしかなければ、そのときは嘆くしかないんだ。

重要なのは、外側に求めることじゃなく、いいときに“いい”と認識し、何にいいと感じたか向き合うことなのに。

僕自身も、女性関係はそうだった。

彼女がいれば変わる。自分の夢がきっと叶う。そんなはずがないし、仲直りしても、関係性なんて変わらず上手く行かんだろうに。

湧いた感情に流されてしまう。

こうすればよくなるんだ。根拠のないそれがずっとあった。

そばにいる人はいい人たちだが、現在の問題に対して、解決に導けるようなそれではない。

居たいと思うし、理想的なそれらを持っている人だった。だが、不安は解消しない。

矢張り、そのための物語だったが、封じられてしまえば良くはない。

少しずつ続けては行こうと思うが、解決に向かうかはわからない。

環境や、近くの人間関係が、問題を更に悪化させるように思えた。

出会う人が違ったり、他の、何かはまってることがある、真剣に向き合ってる人と出会えたら違ったのかもしれない。

ただ、僕は、彼女の幸福を願うばかりである。

 

もう一人の女性について語ろう。

僕はその子に、昔の姿を見た。

二人の人に、その子が似ていると感じたのである。

一人は初恋の人だった。とても優しくて、考えを改めるきっかけになった。彼女に好かれたい。そう思ったが、うまくはいかなかった。

自分の欲望が、彼女のそばにいることを許さなかったのである。

あのときは理性的ではなかった。

悔いても悔やまれる。

そして、もう一人、その子にはそばにいながら気付かなかった。

とてもいいものを持っていた。改めて関わって見ると、いいところがあるそう思えた人。

問題もある人だが、そばにいながら気付かない魅力を。それは彼女と共通する良さであった。

関わって見て、気付いたことがある。

それは言うことが懐かしいそれであった。ある意味で、二人目であったから、自分の中での価値が落ちていたのかもしれない。

けど、ピカピカと輝く何かを持っていた。

しかし、彼女の中にも、悪そうなところはあった。人間なのだから当然だ。

それよりも自分に、大きな問題があったのである。

不安が、今から少し考えを変えたいというのを誘発した。

それは、小説がかけなかったことでもあったと思う。

小説の問題としては、スマホの充電がないとかけなくなってしまうところだ。

充電ははやくきれてしまう。長く考えていたいと思っても、充電というそれが許さない。

僕はそれよりも、わかりやすい快楽に溺れていった。

上記に書いていることの一つがそれであったかもしれない。

特に強く彼女に感じたのは、初恋の女性と似ていることだった。

所属しているものも、方向性も共通点が多い。もしかしたら、生まれ変わり(あり得ない)なんじゃないかと思う程であった。

そうでなくても、僕は彼女の幸福を願いたい。行動が、それに反することをしても、もし、あの時をやり直せるのであれば、彼女の幸福を願いたい。

そのための一つとして、僕は離れようと思う。

二人に共通して言えることだが、少し離れて、もう一度自分を見つめ直し、口だけで終わらない、幸せを心の底から願える人になりたいのである。

そこに、私欲をなるべくはいれたくない。

他のところで言った創作学的な僕の思想である。

そのために、物語を書くことは、変わらない僕の目標だ。

口だけで終わってしまうかもしれない。しかし、物語をすることは、口だけで終わることでもある。

だからこそ、口だけに生きようとも思っている。

ここまでで終わりにします

情操教育について

これについて思うことがあるので書いていこうと思います。

情操教育といえば、少し学問とかの勉強と対比されるもののように思います。

だけど、似たような部分も沢山持ってて、学問(まぁ、情操教育系も学問と言えますが‥)以外の部分を期待しても、得られない可能性があります。

というのも、僕自身が、情操教育を上手く利用できなかったところがあるんですよ。

何があったかというと、人の真似をよくしていた。んです。

創作物の話では、僕の時期に、著作権がどうってことを話してたし、純粋に自分の意見を言うのが怖かったんです。

そもそもが学問的教育をうけてきたからとも言えるんですが、僕自身の問題ではありましたが、そういう子供の場合は情操教育が上手く機能しない可能性がある。

では、どうしたらいいのか‥?

考えられそうなところでは、著作権をなくすとかありますが、結局、お金が絡んで来る以上は(お金なくなってほしい気がしてる‥)なくすことはできないでしょう。

前に話した、情操教育と学問的教育の一致点について話そうと思います。

一つの答えを出さないといけない点です。

音楽でも、どのパートをするか楽器をするかってのは一つしか決められません。

物語や、創作物もそう。その一つしか決められないんです。いくらだってどうなるか可能性があったそれを、一つに定めなければいけないんです。

それは学問でも、この答えは(大体)一つと同じ点です。

つまりはこの点が理不尽で、自由さを奪っている、情操教育の矛盾があるように思うんですよ。

情操教育や、今の学問教育について、学べないところが出てきてしまう。

どちら優位になっても、補えられないところが出てきてしまったら教育は‥って話にもなってしまいます。

ただ、それでも、自由さはあります。

例えば制限の中から、何を作ろうかと考えることとか。楽器とかでも、(知らないが)少し変えるだけで、違ったきこえ方に変わるだったり。

けど、そういうのって、学問や、情操教育とかでは見につかないようなものに感じます。

それはある種、価値観だからです。

いきなり出してしまいましたが、僕が情操教育と、学問の教育で手に入らないと思っているもの。

それは価値観だと思ってます。

つまりは、自由さを自分に与えてあげられるかなんです。

自分はこれしかないとか。自分はこのやり方しか。

そういうのって、自由さがないと思うんです。

色々あっていい。本当であれば、同時に存在していいんです。

本当に解決させるためには、全ては正しいこと、全ては間違ってること。

その価値観が必要だと思っています。

人間を苦しめているのは、一つの思考に囚われてしまう。色々な見方を許してあげられないそれのように思います。

それはもちろん、今のやり方は間違ってるとかじゃないです。

こっちのほうが自分にあってるだったり、無理に今までのこととか、間違ってるやり方とかを否定する必要はないんですよ。

(自分は否定ばっかりしてますけど笑)

こういうのってできないように思いますが、僕はできるように思います。

それはつまりは、嫌な意見があったとします。

例えば〜という人種は性格が悪いやつが多いとか。

それなら、逆に、〜(同じ)という人種は性格いい人が多いも同時に存在していいんです。

一つの考え方にとらわれず、嫌な意見には、真逆のことを言って、直接的には否定をしない。

それはつまりは全てを肯定できるということです。

犯罪自体も考えようによっては良くなる可能性もある。

それは創作の中とか。人がたくさん亡くなってるはずのミステリーとか面白いですよね。人が亡くなることに焦点がいってる訳ではないですが、それによって、どうやって‥みたいなところとか考えることができます。

ある意味で、解決させれば、犯罪を未然に防げる可能性もありますし。

つまりは使い道によってどんなことでも正しくなるが、一つ、僕が考えている全ては正しいことになるという話です。

それは、まぁ、第一段階に考えてるのですが、創作を使って、全てを肯定できるものとするって言うのが補助をしてくれると思ってます。

そのためには、矢張り、創作性が需要な要素です。

創作的価値観の許容、現実にある物語の一つは創作の一部でしかありません。

それは木を見て森を見ずとも言えますし、本質的な創作とは外れることのように思います。

だからこそ、(もちろん、何か新しい学問を追加するよりも)情操教育よりも、価値観が必要に思っています。

人間はもっと創作的でいい。

この世界がより良くなることを望みます!

ここまでで終わりにします

 

 

最近の自分の問題について①

今回はこのことについて書こうと思います。

いつもと同じように創作をまじえながら。

僕の親は精神病なんですよね。

僕自身もそれに近いものがあるとは思いますが、病院いけてないんで分かりません。

まぁ、これについては、他のところで言いましたが、精神病には、感情の依存があるように思うんです。

それはこの人がこう言ったとか、よくわからないことを重視して、冷静に考えられてないこと。そういうのは問題なのではと思います。

こうであらなければいけない、こうしなければならないとか。

感情の依存については、矢張り、問題なところがあります。

例えば怒るとか。正義と悪とか。相手が悪でないと自分は正義になりません。そういう精神世界の位置決定というか、ドラマツルギー的な世界観?が問題な気がしてます。

もちろん、いいところでは、好きな人のことを考えすぎてしまうとかもありますが、それによってしたいことができなくなってしまうと矢張り問題です。

僕自身が考えてるのは、創作学的価値観の許容こそ、精神病とか、多くの問題を解決する手がかりになると思います。

具体的にはどんなものか?

前にこんな話を聞きました。

悪口とか、苦しいことの方が記憶に残っていると。

悪口を言われたとき、人は真逆のことは真実ではないと思ってしまう。

例えば、優しくない、可愛くないと言われたら、自分は優しい人ではない、可愛い人ではないと思ってしまいますよね。

つまりは真逆のことであってもいいという創作性がないし、感情の部分を他人に依存してしまってるところがあるんです。

精神病自体も、環境や、仕事のストレスに加えて、悪口とかが積み重なっていけば結局はそうなってしまうところも仕方ないと思います。

そもそも、人が真逆の部分も同時にあっていいと創作性を持っていれば、悪口自体も少なくできるのではと。

何故、相手に言われないと、自分を肯定できないのか?何故、他人が居ないと自分は普通かどうかわからないのか?

他人に言われなくても、自分自身を肯定していいんです。じゃないと、明らかに悪い方向に進んでいってしまう。

もちろん、それは、他人に強制しようとか、他人がどうこうすればとかの話ではありません。(それがそもそも感情的依存から脱却できていない。)

一人一人が創作性を持つことが重要だと思うんです。

優しい世界を作るためには創作性を。

自分の感情をどうにかするには、矢張り、外側ではなく内側を大事にするしかない。

外側から得られる喜びなんて限られてますし、永遠のものではない。

だからこそ、一人一人が創作性を重要視することで、外側のものを内側の次にすること。

僕自身、スマホという感情的依存をしやすいものに依存してると言えるので、確実にはできないかもしれません。

しかし、感情的依存をなくすためには、必要なことだと思っています。

精神病の話ですが、矢張り、口に出して、悪いことを言う。

そういうのは理想的ではありません。

感情的依存をしてる。怒りは、運動する力とかに使えれば有用ですが、怒ることに使うと関係を崩してしまいます。

他の人たちをも嫌な気持ちにさせてしまうので、怒りは理想的ではありません。(怒ると、隠すようになるばかりで、ミスは減らないと見たことがあります。)

そのように、悪口自体も、他人が居るところでベラベラ話しても、周りの人に依存して迷惑かけ、自分自身も悪い状態にしてしまうので、理想的ではありません。

悪い気持ちが湧いてくるのは仕方ありませんが、それに囚われるのは問題です。

何度も何度も言う必要がない。

精神病をなおすにも、矢張り、創作的価値観は必要なのではと思います。

そして、もう一つ、仕事について。

やっぱり、思うのは、長すぎるんじゃないか‥ということです。

もちろん、短い仕事もあるんでしょうが、基本的に長いイメージしかないんです。

引きこもりとか、ニートとかそういう問題解決に反してるのではと。

長くひきこもってた人が、いきなりそんな長時間働ける訳がないし、逆にやめてしまうと逆戻りだったり、やめられなくなってしまうみたいなこともおこりえる。

なんのために働くのか?それは重要だと思います。意味もなく、長い時間、意味のない仕事をしても仕方ないですし、やればやるほど損をするでは、働く意欲もわかないでしょう。

(ある意味それが愚痴とか、ハラスメントとかそういうのに繋がるのかもしれませんが‥。)

あまり長くしても仕方ないように思います。長くすることによって、自由をとか、何か他のことに依存して忘れてしまうみたいなことが起きては、矢張り精神病の人を増やすばかりになってしまうかもしれない。

有名人が3時間で大丈夫に〜と話していたようですが、大分長くしていますよね。

この調子では問題解決にならないのでは‥と思ってしまいます。

働きたいと思っても、長時間労働では、意欲もうすまるし、リスクも高い。

理想的ではないように思います。

とりあえず今回はここまでで終わりにします。