情操教育について

これについて思うことがあるので書いていこうと思います。

情操教育といえば、少し学問とかの勉強と対比されるもののように思います。

だけど、似たような部分も沢山持ってて、学問(まぁ、情操教育系も学問と言えますが‥)以外の部分を期待しても、得られない可能性があります。

というのも、僕自身が、情操教育を上手く利用できなかったところがあるんですよ。

何があったかというと、人の真似をよくしていた。んです。

創作物の話では、僕の時期に、著作権がどうってことを話してたし、純粋に自分の意見を言うのが怖かったんです。

そもそもが学問的教育をうけてきたからとも言えるんですが、僕自身の問題ではありましたが、そういう子供の場合は情操教育が上手く機能しない可能性がある。

では、どうしたらいいのか‥?

考えられそうなところでは、著作権をなくすとかありますが、結局、お金が絡んで来る以上は(お金なくなってほしい気がしてる‥)なくすことはできないでしょう。

前に話した、情操教育と学問的教育の一致点について話そうと思います。

一つの答えを出さないといけない点です。

音楽でも、どのパートをするか楽器をするかってのは一つしか決められません。

物語や、創作物もそう。その一つしか決められないんです。いくらだってどうなるか可能性があったそれを、一つに定めなければいけないんです。

それは学問でも、この答えは(大体)一つと同じ点です。

つまりはこの点が理不尽で、自由さを奪っている、情操教育の矛盾があるように思うんですよ。

情操教育や、今の学問教育について、学べないところが出てきてしまう。

どちら優位になっても、補えられないところが出てきてしまったら教育は‥って話にもなってしまいます。

ただ、それでも、自由さはあります。

例えば制限の中から、何を作ろうかと考えることとか。楽器とかでも、(知らないが)少し変えるだけで、違ったきこえ方に変わるだったり。

けど、そういうのって、学問や、情操教育とかでは見につかないようなものに感じます。

それはある種、価値観だからです。

いきなり出してしまいましたが、僕が情操教育と、学問の教育で手に入らないと思っているもの。

それは価値観だと思ってます。

つまりは、自由さを自分に与えてあげられるかなんです。

自分はこれしかないとか。自分はこのやり方しか。

そういうのって、自由さがないと思うんです。

色々あっていい。本当であれば、同時に存在していいんです。

本当に解決させるためには、全ては正しいこと、全ては間違ってること。

その価値観が必要だと思っています。

人間を苦しめているのは、一つの思考に囚われてしまう。色々な見方を許してあげられないそれのように思います。

それはもちろん、今のやり方は間違ってるとかじゃないです。

こっちのほうが自分にあってるだったり、無理に今までのこととか、間違ってるやり方とかを否定する必要はないんですよ。

(自分は否定ばっかりしてますけど笑)

こういうのってできないように思いますが、僕はできるように思います。

それはつまりは、嫌な意見があったとします。

例えば〜という人種は性格が悪いやつが多いとか。

それなら、逆に、〜(同じ)という人種は性格いい人が多いも同時に存在していいんです。

一つの考え方にとらわれず、嫌な意見には、真逆のことを言って、直接的には否定をしない。

それはつまりは全てを肯定できるということです。

犯罪自体も考えようによっては良くなる可能性もある。

それは創作の中とか。人がたくさん亡くなってるはずのミステリーとか面白いですよね。人が亡くなることに焦点がいってる訳ではないですが、それによって、どうやって‥みたいなところとか考えることができます。

ある意味で、解決させれば、犯罪を未然に防げる可能性もありますし。

つまりは使い道によってどんなことでも正しくなるが、一つ、僕が考えている全ては正しいことになるという話です。

それは、まぁ、第一段階に考えてるのですが、創作を使って、全てを肯定できるものとするって言うのが補助をしてくれると思ってます。

そのためには、矢張り、創作性が需要な要素です。

創作的価値観の許容、現実にある物語の一つは創作の一部でしかありません。

それは木を見て森を見ずとも言えますし、本質的な創作とは外れることのように思います。

だからこそ、(もちろん、何か新しい学問を追加するよりも)情操教育よりも、価値観が必要に思っています。

人間はもっと創作的でいい。

この世界がより良くなることを望みます!

ここまでで終わりにします