苦手なことをするについて

疑問に思ったのでこれを書こうと思います。

苦手なことは無理にしなくていいんじゃないかなと思います。

なんかよく苦手なことは克服しないととか、できないことをできるようにとかありますけど、やっぱりそんなの無理に決まってると思うんです。

それで逆に更に嫌いになってしまったら理想的ではないですし、そもそもがその嫌なことは本当に必要なのか?ということもあります。

例えば機会に代替できたり、本当にそのことがやりたい人がいるとか、方向性は色々あると思うんです。

もちろん、やらなければいけない場合はなるべく自分の得意なところと関連付けたりアプローチを変えてみるのは大切だと思うし、そのほうがやりやすいんじゃないかなと思います。

もちろん、これは僕の考えでしかないですが。(実行してないので口だけです。)

意味のわからない理由でやらなければとか、仕事とは苦しいことだからとか意味のわからない理由で、やりたくないことを強制されるのは良くない。

無意味で本当にやっても意味なくて苦しい仕事ってのはやりたい人がいない限りはなくていいんじゃないかなと思ってしまうんです。

それに嫌な仕事ってのは、なるべくはなくせるようにするってことも重要だと思うんです。楽しいものに変えられるように考えてみたりとか。

嫌な仕事を嫌な仕事のまま渡すのは酷なことです。

矢張り、嫌なことを無理にさせたり、強制するのは理想的ではないなと思います。

なので、なるべくは、理想的なものに変わったら‥と。

あんまりちゃんとしたこと話せなかったですが、ここまでで終わりにします。

愛や恋愛について

愛や、恋愛、とてもいいものの印象があります。

けど、歪んだそれになってしまうと、お互いが‥。

しかし、矢張り、それにも他で語ったそれがあるように思います。

何かというと、感情的依存です。

この人がいないとだめだとか、この人のことばかり考えてしまう、嫌われてるんじゃないか。

考えてることなんてわからないし、そういうことによって関係が崩れてしまったり、悲劇がおこってしまったら悲しいじゃないですか。

だからこそ、感情的依存が、避けなければいけないもの。そのように思います。

そのために必要なもの。

それが創作です。

相手のいいと思った部分は何なのか?

それを改めて考えること。それが大事に思います。

見た目が好きなら、画像だけでいいですし、性格が好きなら、彼女の性格を理解して物語的に残しておく。

必ず必用ではないもの、そうしておくことが大事なのではないかなと思います。

そして、物語についても思うことがあります。

相手を疑ったりとか。もちろん、それは本当にしてたら問題ですが、何もしてない相手に対してしたらただ関係が悪くなります。

だからこそ、お互いの感情的依存をなくすこと。それが重要だと思います。

そして、創作性も必用だと思っています。

それは、例えば、家庭内暴力が流行ってる(統計とかで)ように見えても、家庭内暴力をしていない家庭についてちゃんと見て自分はしなくていい、仲のいい家族。そういう場所があってもいいじゃないか。

そういうふうに考える創作性。

僕はそれが必用だと思います。

恋愛関係とか、結婚てやっぱり難しいんですよ。一対一の関係ですし、そもそもが偏りやすいものと認識するのは重要です。

だからこそ、お互い気を遣いあわないといけない。

そうしないと、矢張り、長くは続かない。

大人数のほうが、よっぽど、おかしな目標意識でない限りは偏りにくいそれになると思います。

だからこそ、より良い関係を作りたいならお互い気を遣えたり、温厚な人が望ましいかもですね‥。

まぁ、結婚してないし、付き合ったこともない僕が言うのもなんですが笑

僕自身はその人が本当に付き合いたいなら止められないし、そのときは仕方ないと思います。

まぁ、付き合ってほしくないとかは思いますが笑

理想的な関係で過ごせること。楽しく暮らせること。

そういうのも望ましいから、そうであってほしいなとも思います。

まぁ、付き合ってほしくないとかは、他に書いた夢にも通ずるところもあります。

ここまでで終わりにします

創作について

もう何度も語ってる内容ですが、敢えて、また話そうと思います

僕の考えてる創作について語ります。

全ては同時に存在できる。

それが僕の考える創作です。

すべてが同時に存在と聞くと、物語の中の世界が浮かびます。

だけど、その中でも悪いものもありますよね。バッドエンドの物語、何度もボロボロになっても戦い続ける物語。

こんな世界に居たら苦しいでしょう思うようなもの。

だけど、よく考えて欲しいんです。物語はそれ一つだけですかと。

平和的に過ごして何もなく終わる。だけど、癒やされるとか。

争いがなく、ただ、楽しく暮らしているだけの物語。

物語って沢山あるんです。それはひとつだけ、決まりきった道を決まりきったように進んでいくなんてことじゃないです。

複数あるからこそ、創作とは全てを肯定できるんです。

もちろん、一つの世界は肯定されるべきでもあると思います。物語の中でも、こんな世界は間違ってる。この世界のほうが正しいんだなんてこと起こりにくいでしょう。

だからこそ、全ては同時に存在していい。

物語をあわせた合計的な世界。

それこそ、理想の世界だと‥僕はそう思います。

色々あるからこそいいとは、逆に、色々あるからこそ、理想の世界が作れるとも言えます。

何が目指したいのか、自分がしたいのは何なのか?それが考えられる、本当の自由とは、全てが同時に存在できることであって、一つ何かを選ぶことではありません。

だからこそ、色々考え、理想の世界を突き進むこと。それが理想なのではないかなと思ってます!

物語は複数あります。けど、物語自体は自由な世界ではありません。その時の気分で嫌な世界になったり、よくなったりする。

ある意味で、現実とも近い世界。

だけど、目指してるところは変わりません。理想の世界。

創作とは全てをあわせるからこそ、理想の世界になるんです。

それは嫌なこと、苦手なこととかもそこでは存在しなくていいなんてことにもできる。

物語の中では存在しないんだから、そのことについて無理に作ろうとしなくていいんです。

だからこそ、理想の世界が作れる。

理想の世界を創造すること。

創作は完全なる自由な世界であるからこそできる。もちろん、物語を作ることは完全なる制限の世界になりますが、それをふまえていればきっと理想を目指せる。

それは学問とか、色々な世界から重ね合わせてもいい。

一人一人が理想の世界を目指せたら‥自分の意見もできるし、迷惑をかけるとか少なくなると思うのでいい世界になると思います! 

終わりです!

依存について

今回はこれについて語ろうと思います。

依存、これについて嫌なイメージが多くないですか?

もちろん、悪いところは多いんですが、いい部分も結構あります。

前に聞いたことでは、食べ物自体も、店がやってるからこそ買えて食べられるし、知らず知らずのうちに依存してることってのは多いんです。

僕が他のところで何度も言った感情的依存について語ろうと思います。

感情的依存とは精神世界や、求めすぎてしまったりで理想的な関係性を築けないことを指しました。

そして、悪いものとしてあげられること。

ギャンブル依存症、ゲーム依存症、薬物依存症。

こういったものに共通して言えるのは、外部のそのものが存在していなければ喜びを得られないというところにあると思うんです。

外側に依存してしまっている。

依存っていうのはやっぱり、やりたいからやるではなく、精神世界が、その外部のものによって支配されてしまっている状態を指すんじゃないかなと思います。

自分自身で喜びを作り出すことが出来ず、外側の何かによって、喜びを作り出すことを強制されてしまってる。

本当であれば、自分の喜びは、自分自身でしか分からないのに、外側の意味わからない人やあったこともない人が侵害し、勝手に好きと思わされてしまってる。

そういうのって理想的ではないでしょう。

だからこそ、僕が考えてるのは内面的依存です。

依存する方向は外側ではなく、内側。

迷惑自体も、内側に依存するのであればかけることは少ないでしょう。

そして、内側だと逆に依存しづらい。だからこそ、この内側の依存はとてもいいんです。

持ってる知識から新しい何かを考えたり、自分の好きなものについてさらに深めて行ったり。

そういうことでも喜びは湧いてきます。

もちろん、とらわれないことが重要ですが。(こう考え続けなければいけないとか)

いつでもできるって言うことが重要です。中々、いつでもできるものは価値の低いものに思われてしまいますが、理不尽で、いつでもできないものなんてものと比べたら絶対的に喜びが多い方のがいいですし。

もちろん、内側の依存といっても、外側を全部依存しないようにとかは無理です。だからこそ、内側を一番に大切にし、2番目に外側をおく。

面白いゲームがなければいけない、つまらないゲームや、だめなところには苦情を言う。そういうの続けても、その人は幸福とは言えないでしょうし。

だからこそ、相手のいい部分を取り入れ、自分の理想の世界というものを探求していく。

本当の理想の世界って、いつでも叶うんですよ。だけど、価値がないって思ってしまう。

だからこそ、一人一人が向き合う必要があると思うんです。

僕はレートにハマっています。正直、なんでこんなにやってんの?思うこと沢山あります。

名言にはこんなものがありました。

利己的な人は自分を愛せないから利己的であると。

思えばレートを頑張ってたのも、今の自分は弱いとか、強くなる(現在はだめ)と否定し、今の自分を愛せてなかったからこそ上を目指していた。

そうとも言えるのかもしれません。

自分の敵は自分。いい言葉だな‥と。

繰り返してしまうかもしれませんが、僕は矢張り、内面的依存が重要なのではないかな‥と思います。

とりあえずここまでで終わりにします!

慣用句や、故事について

今回はこれについて僕の創作を交えながら語って行こうと思います。

(一応違うものだろうが、ここでは、便宜上、ことわざ=慣用句にしてる)

慣用句についてどう思いますか?

僕はとてもいいものもあって、悪いものもあるように思います。

それはある意味で、人間的だな〜と。

もちろん、いいものが沢山ありますし、慣用句がいいのは当然だからということで、敢えて、否定して見ようと思います。

もちろん、こんな慣用句は要らないとかの否定ではありませんが

慣用句自体はいいんですが、逆にそれがあることで悪いことになってしまう。

その可能性も否定できないので、だからこそ、逆にそのことわざの反対の言葉も存在していいんじゃないか?というのが僕の提案です。

もちろん、ことわざとして成り立たせるのではなく、自分の考えとして存在させること。それが重要だと思っています。

考えることは自由なんて言葉がありますよね。

都合の悪い言葉は消すか、新しくそれを反対する言葉が出てこない限りは残り続けます。

この世には絶対的な真理はない。

そんな話を聞いたことはありませんか?

何故、慣用句が絶対的に正しいことになるんでしょうか?

だからこそ、慣用句の否定ではなく、新しく真逆の考えが同時に存在していいような価値観が必要だと思うんです。

都合の悪い意見はなくなるまで永遠に否定しなくてはならない。

そんなの不可能だし、絶対に無理なんです。

だからこそ、相手の考えが存在していいなら、自分の考えも存在していいという価値観を。

それは例えば、一度切れた縁はなおらない。みたいなことわざがあったとしても、実際、それが絶対にそうかと言われたらそうとは言いづらいんです。

僕は子供の頃、絶交と言われて、何度も友達に戻るを繰り返されて。

本当にそうかと思いたくなるような出来事がありました。

そんなに深く執着してたりせず、普通に過ごしてたら自然と仲が戻ったり、また仲良くなれるなんてことも可能性的には充分あります。

これはつまりは、一度切れた縁は確かになおりづらいが、絶対にそうとは限らないということです。

なおることもある。ただ、執着せずにいられたら。

名言にも言えることです。その考えは存在していいが、真逆の考えも存在していい。

何かを否定する必要はないんです。

新しく作り出せること。人間に大事なのはきっと創作性だと僕は思います。

ことわざや、慣用句自体にも、対義語というものはありますし、慣用句とかそういうのとして残らなくても、その人の中には存在していいと。

ある意味で、創作とは優しさであり、人を自由さに導いてくれる偉大で心の広いものであると思います。

人生は苦しい、生きるのは大変だ。そういう考えもあっていい、そして、それは同時に人生は楽しい、人生は楽だ。そういう考えも存在していいんです。

全ては肯定できるということなんですが、矢張り、慣用句、ことわざがなんのために残ってきたか?

それがわからなくなりませんか?

でも、これがあることによって、印象が強くなる可能性もあるんです。

例えば他でも言った天動説と地動説など。

天動説がなければ、地動説の印象ってあまり薄かったんじゃないかと思うんです。

間違いがあるからこそ、地動説という真実はさらに色を増す。

慣用句、ことわざもその色をおびてると思うんです。

本当にいいなと思うならそれを大事にし、嫌だな‥と思うものは他人に危害を加えない範囲で都合のいいものにする。

ことわざや、慣用句との付き合いではこういうことも大事なんじゃないかなと思います。

理想的な関わり方ができるといいな。

ここまでで終わりにします。

 

人との関わりについて!

今回はこれについて話そうと思います。人間社会に於いて、とても避けられないもの。そして、関わらなくなっても関わらないといけなくなるもの。

それは人だと思います。全く関わらないと逆に関わりたくなってしまう。

とてもバランスのいるもののように思います。

僕が考える創作学では、矢張り、これについてどう関わるかが重要になってくると思います。

それは物語や、精神世界など、自分がすべてがどうにかなるものを喜んで次に現実のもの、ことを大事にするということです。

夢って中々叶わないし、人間関係も期待しすぎると、後々、苦しくなったり‥。

もちろん、大事にするのはいいことですし、僕の考えの中では、創作をもっとも大事にしながら、次に人を大事にするみたいなことですから、大事にすることは前提です。

けれども、依存しすぎてしまったりは望ましくない結果にもなるかもしれないので、避けなくては。

現実の問題自体も、多くは人間関係だったり、身体とか、精神とはまた違ったものから発せられるそれによって、その問題となるでしょう。

人間関係も大事ですが、矢張り、それによって考えることがだめになっては理想的ではありません。

だからこそ、人間関係を大事にするためには、自分の時間をとり、考えることも重要。

毎回、それが取れれば、僕は、多分、理想的な人間関係が作れると思うんです。

他のところで言った、感情的依存をしないこと。

それも相手がこうだとか、悪口言ったとか、なるべくはとらわれないことが理想的で、そういう世界をなるべく避けることがいいんじゃないかなと思います。

怒るのも、方向性によって、より良い関係性にできる可能性もありますし。

例えば他のところで言った、怒りがわいてきたら走るとか。

おかしいと思われるかもしれませんが、結局は、相手が嫌な気持ちになって自分が〜というのは避けられるかもしれない。

そういうのってのは理想的なんじゃないかなと。

そもそもがおかしいだけで、おかしいとか負の感情がわいてくるのもおかしな話だと思います。

例えば、悪口とかも。
 
おかしな顔をしてるとか、それを言ってる本人はどうなのだろうか?と思います。

迷惑をかけたから相手に仕返しを、そんなに迷惑をかけた相手のために頑張る必要はないと思うんですよ。

それよりも、自分を見つめること。

何故か、自分で褒めることは悪いことで、相手から褒められることのほうがいいこと。のように思われますが、自分で褒めてもいい。

改善したい点はどうしたらいいか考えればいいし。

苦しいとき程、自分は大事にした方がいいんです。それは相手が迷惑かけるなとかではなく、自分だけに向いて、相手は介入しないことが大事に思います。

何かの道で優れてる人は謙虚だったり、自分の悪いところを見たり〜とかそういう考えもあるでしょうが、その人は“勝ててる”という事実があるんです。

そんな人が勝つことばかり考えてたら強くなれないでしょうし、謙虚さだったり、時には負けたことも必要になるでしょう。

何もない人ほど、ポジティブであった方がいい。それは大事なことのように思います。

2つのこと、それを同時に認められたら、人はどれだけでも進んでいけると思うんです。

だからこそ、精神世界を大事にし、外側の世界を次に大事にする。

人間関係多くても、それができたら、きっとより良い世界になるし、問題は少なくなるように思うんです。

もちろん、僕の勝手な妄想にすぎませんが。

そして、人との関わり。

これについては、肉体的な接触もあるでしょう。

例えば挨拶をするとか。手を繋いだりとか。

もちろん、走ることとかも人の関わりではないでしょうが、バイアスとして、散歩より走るのほうがいいとかあるでしょう。

だから、あえて、これについて語ろうと思います。

率直に言ってしまえば、走るより、歩くの方が理想的だと思います。

それはつまり、走るってつかれるし、考えるのに向いてないような気がするからです。

もちろん、運動になるし、理想的ではありますが、それによって問題が出てきたりだと望ましくないでしょうし。

少ないようですが、ちらほらはいるみたいです。持久走とか嫌だったな‥みたいな言ってる記憶あります‥。

散歩でも結構運動になると思うんですよね。

もちろん、やりたい人は走るのがいいですが、走ったほうがみたいに強制観念的なものがある人は歩くべきだと思います。

全ては同時に肯定できる。なので、歩くのも、走るのもいい。その価値観は大事ですから。

そして、これについて言えることなんですけど、人間は全く動かないなんて不可能です。

食べないことも厳しいですし、外側の世界と内側の世界で成り立ってるのは事実でしょう。

ただ、大事にした方が理想的なのは、外側に求めすぎないということです。

運動で言えば、走るよりかは歩くとか。

戦争自体も、もっと、範囲が狭くて、違う面で争ってたらある意味戦争とはまた別のものになりますし、平和と近付くでしょう。

つまりは、もっと安心で、それがないとダメとか、愚痴ったりとかないような、より良いものに代替していくのが理想的なのかなと思います。

快楽はその人を本当に満たしてはくれないでしょう。

悪口だってそう。快楽ですが、その人は中々みたされない‥。

怒りだって。

それよりかは、自分の心の中で、自分の喜ぶことを自分で与えてあげる。

それは上で言ったような、自分で褒めてあげる、自分で悪くて直したいところをみてあげる。

他人に言われたからここがいいところなんだって無理に思わなくていいんです。あくまで、確かにその通りだと思ったなら、それもいいと思いますが、自分のことは、矢張り、自分が一番よくわかってると思うんです。

創作的あり方、それこそが理想の世界を作るものだと信じています‥。

そして、最後に。

人間関係で、少し目にしたんですが、仕事を増やすということ。

それについて語ろうと思います。

そういう人は、矢張り、上で書いたように、自分を大事にできていないんじゃないかなと思います。

僕自身もそうなんですけど、一人の時間をとろう思っても、悪いことが頭に浮かんだりでできなかったり、何かに依存したり、やらなければと囚われたり。

そういうことが多くて、時には、他人や、何かに依存してしまうことが多いんです。

もちろん、気付いたときはなるべく離れたりどうしたらいいかとか考えたりしてますが。

あくまで、絶対的に直そうとはせず、考えとして創作は必要だと思うんです。

絶対的な優しさがそこにある。

僕はそう思います。終わりです!

30万円あったらどうする?について

あまりこういった運営側の問いかけ?とかにはのって行かなかったんですけど、今回はなんとなく自分の考えを話そうと思います。

僕はどうしたいかというと、一つは貯めたいかなと思います。

純粋にゆっくりつかっていきたいので(色々新しい安いもの試したい)貯めるのが第一候補。

次は親にわけたいと思ってます。お金に困ってるので。(これはある意味で、貯めるも同じ意味があると思います。)

でも、絶対に使わないといけないのなら、宝くじに入れると思います笑

なるべく働きたくないと思ってるんです。純粋に偏見とか、悪い考えとか共通認識としたくない、年をとっても優しい人に‥みたいな思いもあるので。(もちろん、その可能性は妄想で、大丈夫でいられる可能性もありますが。あとは働くことで、迷惑かけてしまう可能性も捨てきれないので‥。)

そして、働かないことによって、ある時間で、物語を考えたり、僕が提唱した創作学について深めていったりしたいなと思っています。

他の夢についても、お金があれば、実行しやすいでしょうし、そうなったらいいなーとだけ思ってます。

まぁ、宝くじはじめて買って、元金戻ってくるという少し好感触ではあったので言ってるところもあるかもですが笑

でも、基本的に当たらないとは思うので、貯金や、わけるが理想なのかな‥とは思ってます。