世界の全て⑫

魔法

この世界には魔法が存在する。

そんなことは馬鹿らしいことだと言われるかもしれない。

だが、僕は、確実にその存在を身をもって体感したのである。

あれは去年の誕生日の頃だった。

周りの人達は、私の誕生日を盛大に祝い、私の心もとても踊り、喜びが体の中を巡った。

しかし、次の日には、それらがパッと消えてしまったのだ。

あれ程までに、優しかった皆が手のひらを返したかのように、冷たい態度をとったのだ。

僕はそれに打ちひしがれ、どうしようもないもどかしさが心の中を巡ったのである。

あの世界は幻想だったのか?

あたりを見回しても、今までを打ち消すような現実があるだけで、悲しさが心を包み込んだ。

そうか、これが20歳、いいや年齢の魔力というやつか。

そう納得した。

ある日のこと、僕の元へ、少年がやってくる。

僕は彼と遊んだりして、とても可愛がった。

子供が好きだという訳では無い。

しかし、彼は、私に何かをくれた。

それは出会った時のこと、彼はどこかに向かって木の棒を投げたり、石を投げたりしていた。

さっきまでの悩みを忘れ、何をしているのかと聞いてみる。

「僕は大人という、居るか分からない敵と戦ってるんだ!」

その言葉に、魔法が消えてなくなった。

何が自分を縛り付けていたのか、そもそも「大人」とはなんだったのだろうか?

ただ、そのひとつの言葉で僕から魔法が消えてしまったのは確かである。

この世には多くの魔法がある。

自然と人は魔法によって、惑わされてしまう。

それから、僕のまわりでは不思議なことがあった。

猫が寝てるのを見て、それを笑ってる人、悲しんでる人、怒ってる人、ありがとうと呟く人様々居た。

人によって、感情が変わってしまっている。

まるで、魔法にかかったように。

人は知らず知らずのうちに、このような魔法と言うものにかかってしまうのだろうか。

ただまるく書かれた円を見て、それを地球だと言ったり、球技のボールだと言うものがいる。

ただの円に過ぎないのに。

知識というものにおいても、それによって世界が変わってしまう。

占いばっかりやっていた人は、スピリチュアルといったもの、単なる偶然を運命と考える。

短歌など文学は、世界に広がるありふれた光景を見て、美しいものだと例えなど交えて表現する。

数学や、規則などを好む人は、世にある事象を、数や法則と考えるのだろう。

そうか、魔法と言うものは、ただ1人のものではなく、全て一般に起こっているありふれたことなのである。

全てに共通するその魔法というもの、それを深く考えてみた。

すると、段々とそれが姿をあらわしてくる。

知識を得たり、自分の考えというもの、それらが深まっていくと出てくるものこそが魔法であると。

人は自分の内面によって、見える全てのものを、マイナスのものと捉えたり、プラスものと捉えたりする。

世界は、内面にあるそれによって、いくらでも悪いものに、いくらでもいいものへと変わってしまうのだ。

僕はその魔法というものに惑わされた、ただ1人の人間であることが分かった。

そして、薄っぺらい紙に、知識は魔法と書いた。

すると、風に流され、どこか遠くへと飛んでいく。

僕はそれをただ見守っていた

──────

被害者と加害者

あなたは、誰かからこうされたとか、相手にこうしてしまったと思うことはないだろうか?

僕は沢山ある。

この2つの思考を、僕は、それぞれ被害者思考、加害者思考と呼んでいる。

それぞれお互いに悪いものであり、結局は、それが正当化されたり自責によって、自分もしくは、他人が苦しめられてしまう。

まず、前者について語ろう。

被害者は絶対的に優位になりやすい立場である。

それによって、被害者自身の罪がないものとして扱われ、どれだけでも、自分のことを悲劇のヒーロー、ヒロインのように振る舞えるのである。

例えば、肩をぶつけたことで、相手が痛いと感じたとしよう。

相手からぶつかったとしても、痛いと感じたのは相手であり、自分がその痛みをおわせてしまったのだからと言う、加害者、被害者の関係になり得る。

その加害者思考が強いひとは、逆に冷静にみた被害者になり得るのである。

考え方の違いにより、被害者と加害者の位置関係が逆転してしまうのだ。

被害者思考というのは、そのされた相手に対して、いくらでも悪く言える権利が与えられ、些細なされたことでも、さながら、極悪人のようにその人のことを変えてしまえる。

被害者思考というのは、時には、加害者に変わることもあるのだ。

次に加害者思考について語ろう。

加害者思考というのは、大体が自分で完結することが多い。

更にその思考が強く残り過ぎて、悪いものへと突き動かすこともあるだろうが、基本的には、自分は悪いと自覚しているのである。

加害者思考というのは、いつも、悪いのは自分であり、他人は悪くないと考える。

明らかに、相手が悪い場合でも、些細な自分の行動に対して、あれがよくなかったと申し訳ないと考えてしまう。

被害者思考は他人を巻き込み、加害者思考というのは自分を苦しめるものである。

ただ、加害者思考も、自分を苦しめることによって出てくる行き場を失った負の感情を、そのしてしまった相手に対して更に迷惑をかけるのである。

負のスパイラルにはまるのだ。

お互いに、相手や、自分に背負わせてしまう悪いものであるが、この2つは、陥ってしまうとどうしようもなくなる。

僕の経験則上、被害者思考は人生が上手くいってる時や、そういう人ほどなりやすく、上手くいっていない時、そういう人ほど加害者思考になりやすいと考えた。

誰であれ、多くの人から賞賛されれば、喜びのあまり、何をしても許されると考えるのは当然であり、真逆の位置にいれば、自分を責めてしまうものである。

だからこそ、必要になってくるのは、その2つが存在しない状態。

真逆のものを必要とする。被害者思考と言うのは、されたことに対して不利益をもらったと理不尽さについて悩む。

なら、それ以上の悪いことに起こらなくて良かったことを考えたり、自分が昔にした過ちについて考え、その被害者思考が起こるのを自分の内に抑制することがあげられる。

加害者思考については、相手が自分にしてくれたことについて考えて、してしまったという思考を消し去ってしまう。
それか、してしまったことについて考えても仕方がない。だからこそ、それによってもたらされたものについて良かったと思うことこそが、その加害者思考を取り除く1つの方法である。

両者ともに、自分の妄想や考え方に上書きすることによって、その2つを消し去ってしまう。

それこそが、理想的な立場であると僕は考える。

被害者思考や、加害者思考になってしまうことは仕方がない。

なら、その思考について思い悩むのではなく、あくまで、2つの負の考えを消し去り自制することこそ、理想であり、幸せの1歩である。

これこそが皆無主義。幸せに最も近く、真理をついた最高の考えである。

僕はそう思うのだ。

─────

これから

「ただいま。」

「おかえり。」

2人は少し遅いながらもそう言って、帰ってきたことを喜んでいた。

しかし、彼女がひとたび、宗教家の話を口にすると、お互いに黙り込んでしまう。

これから、どうなるのだろうか。

なるべくは何事も起こらず、平穏な毎日を送れることを祈るばかりである。

「集多くん、前の事件から、もう人を失ってはいけないって。

だから、何もなく帰れたの。」

「そうか。」

加木さんはそう言って、また2人は口をとじた。

それに私は思わず「本多さんはこれからどうするんですか?」と言う

「私は変わらず、物語を作ろうと思うの。」

加木さんは「そうか」とだけ言った。

「ゆういちくん達はどうするの?」

加木さんが「俺は何をする予定はない」と。

私も彼と同意見だ。

しかし、これから集多さんとはどうなるのだろうか。

僕らは彼らが動くまで…、いや、もし、動いたとしても何もしないだろう。

本多さんは「そう…」と言って続ける

「ゆういちくん、集多くんとはどうするの…?」

とても弱い声でそう言いました。

「その人が、もし、俺と仲良くなろうと思うのなら、俺はそれを受け入れる」

「もし、なれなかったら…?」

「悪いことは考えなくても大丈夫だ。仲良くなれるから。」

「仲良くなれる訳ないじゃない…。」

本多さんがそう言うと「そうか。じゃあ、勝負だ!」

勝負?私は心の中で、とても驚いた

「あなたって勝負好きね…。

今日の勝負は何?」

「これから、集多と俺が友達になり、仲良くなれるか、なれないか!」

「分かった。」

「よし、決まりだ!」

その意気揚々とするさまに「あなたって、いつも自信満々ね。」

本多さんはそう言ってクスリと笑う。

私は状況が飲み込めなかったが、何事もなくて良かったと一息ついた。

────────

2人は家に帰った。

私はこれから2人の物語の続きを書こうと思う…。

私のこれからをあなたが見たらどう思うのかしら─────

Aくんは、どうしても、平等こそがいいというBくんの考え方を許せませんでした。

しかも、Cくんという、味方する人も出てきたので、それが怒りで一杯になりました。

ある日、Cくんは、友達の女の子にこう言います。

「AくんとBくん、今は仲悪いけど、きっといつかは仲直りすると思うんだ。」

その女の子は「うんっ!Cくんの思いはきっと伝わるよ!

みんな仲良しになるんだ!」

そう言って満面の笑みで笑いました。

しかし、それから数年後、BくんがCくんをなくしてしまった。

Aくんの仲間は、Bくんをとても責める。

君が悪いんだ。って。

それがきっかけで、前より、彼が平等という考え方を殆ど言わなくなった。

しかし、一度、彼はその考えの蓋を開けて、また歯車は動きだすことになる。

───────

「これから私たちは、敵を倒さなければいけない。

悲劇は繰り返してはならないのだ。」

「元凶となるあの男を我々の力で思想ごと、消し去ってしまおう」

その男の声によって、多く集まった人々は「そうだ!」とみな、拳を突き上げた。

心と体の病

今日、これから、私はある男の思想について、大々的に批判をしたいと思う。

あの男の思想は間違っている。

それが事実だと言う証明をこれからしよう。

それは、心の病と体の病である。この2つはお互いに悪いものであり、無くさなければいけない害悪である。

それなのに、中立的であることこそがいいとはなんたる思想であるか。

心の病、それは何かの原因によって、内部が疲弊しきっておかしくなってしまうことを言うのだろう。

そして、体の病とは、怪我など目に見えるもののこと。

それらを中間的にするということは、マイナスなものとマイナスなものの中間、それはつまり、マイナスを目指すということを示す。

彼の考えは間違いである。体の病と心の病の中間、つまり、体と心の病を持った状態こそが理想の状態であるということを指し示す。

そんな訳がない。

理想の状態とは、そう、それらが完全に存在しない状態である。

つまり、皆無主義こそが理想であり、完全無欠な思想である。

しかし、集多教の教祖は、放任的な立場だ。

何故、この2つにわかれてしまった思想、あの、マイノリティ均衡主義者をこの宗教から追い出さないのか。

こうなってしまうと、内部争いは避けられないだろう。

放任で居た創始者に成り代わり、皆無主義提唱者であるあの方こそが神である。

そうだ。あの方こそが絶対的な思想を持ち、絶対的な力を持つ神なのである。

偽りの神に成り代わり、本当の神が君臨なされるのである。

そうだ。私は彼のしもべとして、異端とされる中立主義を排除し、偽りの神を引きずり下ろして、本当の神を…。

私は少し落ち着くことにした。

昔、体の病に悩まされたことがある。足を怪我し、長い期間入院した。

その時私は絶望したよ。もう歩いてどこかへ出かけることはできないのかと。

そうして考えているうちに、心の病にもかかってしまったんだ。

未来に希望がもてず、過去に起こったこの出来事に対し、どうしてあの時、こうしなかったのか。

こうしていれば、怪我をせずに済んだのだ…と、ずっと責めていたんだ。

だからこそ、私はこの考えに出会った時思ったのである。

これこそが、真理であると。

心の病と体の病、その2つが存在しなければ、人は苦しむことはない。中立的な位置がいいはずがないのである。

そして、もう1つ、私には言いたいことがある。

それは、悪と正義についてだ。

これは両者ともに存在しない方がいいものであると考えた。

悪というものは、正義なくして存在しえない。つまり、悪と正義は、どちらか一方を無くせばいいと言うものではなく、両者ともに無くさなければいけないものなのだ。

この世界は皆無、それこそが理想であることを、私は多くの人達に知ってもらいたい。

これこそが、世界の全てであることを。

────────

未完の思想①

僕は激辛料理が好きだ。

口の中を染み渡る、このなんとも言えない痛みが癖になる。

しかも、食べれば食べるほど慣れていき、今まででは、食べられなかった更なる辛さへと挑戦できるやりがいすらもある。

誰にも辛くて食べられないものを、痛みを感じさせず食べている。

それを想像すると、自分はとても忍耐力があり、強い人間だと思えて更にやりがいや、更なる高みを目指したいという欲求も芽生えてくるのだ。

しかし、それによって、周りも気になってくる。

自分より辛いものが強い人間を見ると、俺はまだまだだと思えて、更に下の、辛いものが得意だと自称して、自分の食べられるものが食べられない人を見て、お前は激辛好きとは言えないと待ったをかけたくなるのである。

そこには、自分より食べられないくせに…という思考が現れ、更には、激辛と書いてある言葉に対しても、この程度で激辛と言うな思考が現れてくる。

ズレたが、僕は激辛が好きだ。

辛いものを好きになると、段々分かってくることがある。

それは、辛いものをとるとせっかちになりやすいという事だ。

痛みというのは、苦痛ではあるが、それは喜びでもある。

その苦痛を乗り越えた時、自分は耐えられたのだという達成感が得られる。

しかし、苦痛というのは、少なければ喜びになるが、多すぎるとただの苦痛でしかない。

苦痛は本当の意味では求めていないのだ

激辛という苦痛も例外ではなく、はやくこの苦痛から解放されたい

そう思うことで、それが終わった後の喜びが、大きな幸福となる。

その幸福を錯覚し、美味しいから食べているのだと思い込んでいるのである。

少なくとも僕はそうだ。激辛があれば美味しいと考えて、更なるそれを求める。

そして、今があるのだ。

激辛について、更に深めよう。

辛さと暑さは方向性が同じものだと考える。

例外あれども、暑い時は多くの動物は外に出て活発になり、寒い時は冬眠し、行動が少なくなる。

つまり、暑さは人をせっかちにし、寒さは人をのんびりにさせるのだ。

辛さの対義語に甘さというものがあるが、寒さとマッチするのは、その甘さというものだろう。

その方が理にかなっているのだ。

そして、暑さと辛さそれは、2つあわさることによって、更にその刺激を強くさせる。

そうだ。辛さとは暑さであり、暑さとは辛さであるのだ。

甘さは分からないが、きっと寒さと同様のものであるだろう。

私は辛さというものを深め、色々な事を学んできた。

しかし、それは自分の内面だけのことでしかなく、多くのことを学んだように見えて何も知らない。

しかし、私は今までの自分の考えが否定されようとも、何か学んで改めていく。

そう、これこそが…