世界の全て⑪

続き

私は外に出ると、あの本屋に向かった。

そこに理由はない。

つくと、あのコーナーに行って、本多さんの本を見た。

よく見てみると、いくつか名前が書いてあって、占いにハマった男の物語の作者は赤野と。

前の神のお告げが聞こえると言う人だ。

あの後、どうなったのだろうか?

私は新しそうな本をペラペラめくると、そこには、2人で仲良く暮らす物語が綴られていた。

きっと、彼の問題は解決したのだろう。

私はそっとそれをとじて、他の本に目をうつした。

相変わらず、名前が書いていないのは、多分、彼女が書いた本なのだろう。

そこにある多くは、もう読んでしまったものだった。

私は何かないかと、本をあさっていると4巻と書かれた本が置いてある。

私は思わずそれを手に取って、パラりとめくった。

そこには、自分も出向いて、勧誘を勧めたが、断られてしまったと続く。

私はなんだかそれを見て、少し前のことを思い出していた。

そして、更に続きを読む。

今度はその人を連れて、自分のグループに入る人物を、悪い道に引き込んで、グループから抜けさせてしまった。

少しだけ減ったが、まだまだ沢山いる。

だが、そろそろ決着をつけなければ、グループのメンバーがいつの間にか、彼により居なくなってしまうかもしれない。

そう考えて、色々な作戦を考えて、攻略を進めている。

そこで本が終わっていた。

その後どうなるのか気になったが、周りを見ても、5と書かれている本はない。

しかし、これを書いているのは、誰なのだろうか…?

本多さんは居なくなって書けなくなってしまったはず…。

しかし、よく考えてみると、全て、本多さんが居なくなる前の出来事だった。

本を書き終えてから、行ったのだろうか…?

彼女が今どうしているのか、なんだかとても気になっていた。

私はその後、本屋を後にしようと店を出ると、後ろから、誰かクスッと笑う声が聞こえてくる。

振り返っても、そこには誰も居なかった。

この笑い声は、本多さんのものだった。

私はきっと気のせいだと、家に帰っていく

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僕の学校では、よく友達が、ある漫画の話題で盛り上がっている。

続きはこうなんじゃないかって、言ったり、それを否定して、こうなんじゃないかって。

けれども、僕は知っている。

正しい答えを。

だけど、僕はそれを言わない。

僕が思っている答えが正しくても、人は正しさを求めていないから。

それに、皆は正しくないことを言っていても、それを見るのがとても好きなんだ。

だけど、それは、悪い方向としてじゃない。

その人の考える続きと言うのは、色々な考えが含まれていたり、面白い発想もうまれたりする。

僕はその新しさや、自分ではうまれにくいそのアイディアを聞くのがとても好きなんだ。

同じ人間でも、今まで見てきたもの、その時の気分によって、その物語の解釈が変わってきたり、物語のトーンが上がったり下がったりする。

そこには、色々な新しい想像が掻き立てられて、その続きを僕の頭が作り出してくれたりして楽しいんだ。

だからこそ、たとえ間違っていたとしても僕はそれを否定しない。

ただ1人の楽しい考えだから。

僕は今日も物語の続きを求め、皆のいる方へと耳をすませた。

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感謝

「ありがとう」それは、謝ることよりも大切でないとされることがある。

しかし、謝ることと言うのは、必ずネガティブにしかはたらかない。

それをしたところで、相手が気持ちよくなるだろうか?

僕はそうは思わない。お互いに申し訳ない気持ちで一杯になる。

だからこそ、謝る必要はないのだ。

では、何をすればいいのか?

それは感謝である。

それこそ、お互いが嫌な気持ちにならずにいれる最高の武器だ。

しかし、それは、誰かに強制するものではない。

挨拶を無理やり言わせようとする人がいる。

それも同じことだ。誰かに強制しようとしても、その人がそれに対して拒絶反応を抱いて、したくなくなるのが常である。

自分が心の底から、ありがとうと思えることこそ、感謝であり、挨拶なのだ。

幸せになるためにも、この感謝が必要になってくる。

そう、これは無敵の武器である。

不満を言う人間が、幸せに思えるだろうか?新しいものを求め続け、未来のことばかり考えて今をおざなりにしている人物が、幸せに思えるだろうか?

本当に幸せになりたければ、今に感謝することだ。

今に満足できてない人間が、未来に幸せになれると思うか?

いいや、人は中々変わらない。今変わらなければ、永遠に不幸のまま生きていくことになる。

未来幸せになると言って、今を放棄してはいけない。

今、この時こそが、幸せになるために必要なのだ。

多くの有名人達が言う、現状に満足するなというのは嘘である。

それは何故か?

有名人達こそが、現状に満足しているからである。

例えば色んなことをする人がいるとするだろう。その人は毎日色々なことをすることで、色々なことをしているという現状に満足するのである。

多くの著名人が言う言葉は必ず偏りがあり、何かを発信する時、必ず、その偏りに甘んずるほかないのだ。

だからこそ、僕は、敢えて、逆のことを言おう。

現状に満足しよう。今に満足していない人間が、新しく何かを達成できるとは思えない。

今に感謝し、そして、少しずつ新しい目標に向かっていく。それこそが、理想であり、幸せなのだ。

ここで、現状に満足すると言うことで提唱したいのが、感謝である。

現在に満足するという点で、手っ取り早い方法こそ、感謝である。

感謝とはどんなことにおいてもできる、無敵の道具である。

マイナス部分に目を向けたくなる時が必ずあるだろう。

それは人なのだから当たり前だ。しかし、それは現実を見ていない。

例えば、明日、先生に怒られるかもしれないと思っても、今、怒られていないことがあり、それは、怒られなくて良かったと考えられるのではないだろうか?

もし、過去に怒られたとしても、それからなんども続いて居なかったり、その一時で終わって、何事もなくて良かったと思えるだろう。

それこそ、感謝の力である。

起こりそうな事などでマイナス部分を見たくなる時は、敢えて、プラスの、今、起こっていないことに感謝することができるのだ。

たまには、起こったことによって引きずったこともあるだろう。

それならば、もっと酷い結果を想像し、自分はそうならなくて良かったとありがたいと思えばいい。

感謝とは、全てにおいてできる無敵の思考法である。

しかし、無理なこともある。その時は利己的な感謝でもいい、心がこもってなくてもいい。

ただ、少しでも心の中に思えれば、今より見え方が変わることだろう。

これは強制ではない。ただの主張である。

どうしても無理なことは離れればいい。必ず、理想の今がある訳では無い。

そこから少し離れ、感謝を忘れなければ、きっと、心の底から幸せだと思える時間が来るだろう。

現状に対しての感謝は時間が経つといつのまにか忘れてしまうもの。しかし、だからこそ、現実に目を向け、ありがたいと思えてこそ、幸せな今を見つけることができる。

視野が狭まって、人は、今を見ることを忘れてしまう。

自分の心の弱さばかりに集中し、相手のことをいつのまにか見失ってしまう。

だからこそ、どんな時も感謝を忘れない姿勢こそ、今に対してのありがたさを忘れない方法だと僕は思うのである。

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均衡、そして普通

僕、分太(ぶんた)にはある考えがある。

それは均衡というものだ。

いいものがある影には、必ず悪いものがある。

と言ったように、世界は2極にわかれている。

僕と似たような考えの人が、今、入っている宗教内部に居た

しかし、その人とは上手くいっていない。

周りの人に、その考えは違うと言われるからだ。

その考えというものが、偏りが生じた時、必要になってくるのが、その真逆のことである。

感情的なもので言うと、ネガティブが先行した時は、ポジティブなものが必要となり、ポジティブが先行した時には、ネガティブな言葉が必要になる。

これだけを見れば、ポジティブな時には、そういう言葉は必要ないと思われるかもしれない。

しかし、人はいくらだって傲慢になれるのだ。周りに自分を肯定しすぎれば、自分を正しいと思い込んで、態度すらもそう変わってしまう。

しかし、ネガティブが先行しすぎてもいけない。

人の欲はいつもネガティブ(苦痛)と言うもののそばにある事実がある。

人に見られるのは苦痛である。しかし、それによって、承認欲求も同時に満たされる。

そして、何も苦労せず得た利益より、苦労して得たものの方がとても大事にしたいと思える。

それは、苦痛の近くに喜びがある事を示している。

ただ、人は本当に苦しみを求めている訳では無い。悲しいことを悲しいと思ったり、悪いものを悪いものと思ったりする。

例え、今、悪い空気が蔓延していても、それは長続きしないだろう

人は苦しみの中に欲を見出しながら、強い苦しみに対しては拒絶反応をおこす。

ネガティブな時に必要な、ポジティブそれは、当たり前になって、見えなくなっている喜びに感謝するか、自分で肯定してあげるか。

他にも色々あるが、他人にばかり依存するような、喜びを求めるのはなるべく避けたいことである。

それに対しては、否定し切れないが、余りに不確定要素が多い

相手の気分次第で、自分がゆり動くのは、自分の人生を生きれていない。

だが、これに対しての批判が、宗教内部で巻き起こった。

その考え方は他の宗教を認める考えであり、ある人の考え、全ては存在しなければいい。という皆無主義に反するという。

存在しないよりも、中間的であれという僕の思想とはまた違った方向性にいるのである。

彼の主張とは、存在しないことこそが中心であり、僕の考えもまた中立的なものこそが、中心なのである。

だが、僕は言いたい。

例え、平和の反対が戦争であったとしても、それは、対義語というものを簡単に決めすぎているだけなのである。

平和の反対は、戦争だけではない。それは存在しないものとして、判断しても良いのだ。

平和の反対は誰かとの勝負である。

求め過ぎれば、誰かを傷付け自分のことばかりになってしまう。

全くこれをしなくてもいい訳では無いが、どちらかに偏ってしまうと、それは悲劇をうむことになるだろう。

本当の理想とは、どちらかに属さず、中立的立場であり続けることだ。

そう均衡を求めることこそが、理想的なそれである。

1度、皆無主義を提唱したあの人と、話したことがある。

その時、彼は言った

「その思想の行き着く先は普通である」と。

私はそれに何も言えなかった。

それは事実であり、また違うことでもあるから。

普通とはきっと、世間一般に言われる偏ったそれではなく、ただ何にも属さない、中立的なそれであると。

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自分と異なる考え

私には思想がある。

今まで多くのそれを発信してきた。

我慢しろと言う人も居たが、それは一時的なものでしかなく、絶対的に続かない。

どんな人間であれそうだろう。

私はずっとそう思って、生きてきた。

だが、それは、ある時を境に、雨が続いた地域に、ようやく雲の中から太陽が出てくるように一変した。

それは、ある人の思想。

この世界に正解や、間違いは存在しないというもの。

私はハッとした。

相手が間違ってるからこそ、自分の正しい考えをと思っていた。

しかし、その前提条件を覆されたのだ。

自分も相手も正しくなく、そして、間違ってもいない。

その後に、私は気がついた。

自分は敵を作りすぎていたと。

あるグループによって、もう自分の命はないものと、思っていた。

しかし、こうして、今生きていられている。

そうだ。これよって、ようやく、現状に満足することの大切さに気がついた。

何故、今までの状況に、満足出来ていなかったのか、何故、新しいものをあんなにも求めてしまっていたのか。

ようやく、その事に気がついたのだ。

我慢は一時的、満足は永遠。

相手からされるものか、自分からするものか、両者はその違いだけでなく、生き方を全く別のものへと変えている。

私は今までのことから、現在についてとても満足している。

こうして、新しい考えに、思考を巡らせられているのだから。

主張の中には、多くの心を踊らさせるものが埋まっている。

そうだ、これこそが、私の求める幸せな時間なのだ。

今日は天才や、偉人について、自分の考えの幅を広げていこう。

天才というもの、それは過程でしかないと言った。

これは自分の中で変えようのない事実だと思っている。

そして、天才というものは、よく、幼年期は理解されないということがある。

全く人と異なった考え方なら、新しさという面を持ち、誰からも理解されないと言うことは分かる。

しかし、天才とはそもそも、理解されているもののことを指すのだろうか?

私が言いたいこと、それは、天才とは、理解されない人のことを指すということだ。

テレビなどでも、よく現れる、天才〇〇という言葉、あれは本当の意味での天才ではない。

理解されたことにより、天才を剥奪された。ただの一般人に過ぎない。

もし、天才というものが、その人についてまわるのなら、偉大な業績を残し、残りの人生を利己的に、何も与えず、そればかりか迷惑ばかりをかけて過ごした人は天才だと言えるのだろうか?

そんな訳がない。だからこそ、ここで私は言いたい。

天才とは、何かをしている過程であると。それを終えてしまえば、その人はただの人に過ぎず、また新しい目的に向かい足を進めれば、その時、また天才というものがやってくる。

しかし、人に認められようとしては、永遠にその人は天才とは逆の方向に走っているのだ。

今日は、天才について考えた。

しかし、この考えは、誰かに否定されるかもしれない。

他の考えというものが、それを否定するからである。

しかし、私はその考えを否定しない。この世には絶対的なものが存在しない。

だからこそ、私は正しくあり、正しくない。

しかし、私の心がこれを素晴らしいものだと揺り動かす限り、私はこの考えを持ち続ける。

ただいま

私は久しぶりに遠くへでかけた。

あの宗教家達に見つかる危険性もはらんでいたが、私の創造への探求心が、前へと進ませた。

新しいものが見つかるかもしれない。

そうして歩いていると、前から懐かしい顔が現れた。

「あなたは…」

男は私の呼び声にこちらをみる

そして、私は昔、彼が言ったことについて感謝を告げた。

その後少し話した。彼は以前会った時とほとんど変わっていない。

ずっと変わっている。

だからこそ、面白い。

新しい発見を私に教えてくれた。

私は更に何かを得た気がした

──────

加木さんは今も、彼女のことを考えているのだろうか?

そうして歩いていると、前から加木さんがやってきた。

私は彼に話しかける。

すると、さっき、見知った顔の人と会ったと言っていた。

その人とは、1度しか会ったことはないが、そのことを喜んでいた。

それから、私は、最近のことの彼に言う。

本屋で、物語の続きを見つけたと。

もしかしたら、何か彼女の手がかりが掴めるかもしれない。

期待は薄いが、私はその可能性にかけてみた。

───────

到着して、すぐに店に入ろうとする。

しかし、後ろから誰かが、私のことを呼び止めた。

そこには、2人居て、あおしくんと真子さんだ。

私は加木さんに、先に行って欲しいと言う。

そして、私は2人の元へ近付いた。

「2人とも、今日はどうしたの?」

すると、あおしくんが最初に口火を切った。

「真子とどんな関係?」

私は少し驚く。

「普通の友達です。」

すると「そんな訳ないだろ。」と詰め寄ってくる。

彼の話では、前に私と真子さんがずっと一緒に居るところを見たという。

いつも遊びに誘っても、私の話ばかり、それがどうしても気に食わなかったようだ。

彼は彼女に気があるのだ。ずっと気付かなかったが、私に近付いたのは、彼女が目的だったのだろう。

私はそれについて否定するが、彼は信用してくれない。

真子さんも彼を止めようとするが、彼の憤りは止まらない。

すると、その中に、救世主のように誰かがやってきた。

──────

店の中では、男が1冊の本を手にとる。

全てが平等であった方がいい。

そう言った男の子は、いつも周りの男の子にその考えについて批判されています。

しかし、それについて、怯むことなく何度も何度も自分の主張を辞めません。

彼に負けないくらいに、周りの人もそれについての批判が強くなりました。

しかし、ある日、彼のことを肯定する人が出てきました。

その人は彼のことを肯定しながら、同時に批判もしています。

みんなが平等だったら、余ったデザートも半分こにしないとになるね。と。

毎回、言われるそれに、少し反応しながら、彼はずっとその思想を言い続けていました。

彼は色々アクションをします。

手紙で、その考え方は間違っていると書いて下駄箱にいれたり、クラスで、誤った彼の考えを辞めさせようとスローガンを作ったりしました。

けれども、彼は変わらず、自分の考えを主張し続けました。

───────

それが終わると、元の場所に本を戻す。

そして、少し目を閉じた。

すると、耳に懐かしい声がそこへやってくる。

女性の声だ。

それに彼はうっとりしていた。

「ゆういちくん、久しぶりね。」

男は目を開けて後ろを向いた。

すると、そこには、見覚えのある女性が立っていた。

「れんかちゃん久しぶりだ。」

女性は「あなたの事だから、ずっと私が居なくて寂しかったんじゃない」とクスッと笑う。

男は何も変わらないその光景にただ、そこで立っていた。

そして「そうかもな。」と小さな声で呟くと、空気を変えるように、「俺の勝ちだ!」と自信満々に言った。

「子供っぽいところはあの時から、本当に変わらないね。」

女性は「でも…」と続けます。

「おめでとう。久しぶりに一勝だね。」

とても嬉しそうに笑顔を浮かべます。

「あぁ。」

男はただそう言った。

そうしていると、向こうから誰かやってくる。

「加木さん!」

私は彼女と彼を置いて、こちらへ向かった。もうほぼ2人は解決している。

それもこれも、本多さんのおかげだ。

後は2人の問題だろう…。

───────

残された2人は、少ししんみりしていた。

「最近流行ってる、なんとかっていう宗教に入信してたんだね。」

「うん。集多教って言うの。」

「だから、あいつらと一緒にいたのか…。

良かったら俺もその宗教入るよ。」

すると、真子さんは
「あおしくん、ごめんなさい。私は巻き込まれたなんて思ってない。」と。

「そうか…。」

そう言って、2人は、何も話せなくなった。

──────

「あなたはこれからどうするの?」

本多さんはそう言って、加木さんの顔をみる。

「特に目的はない。

新しい創造をしたり、色々な人と関わって、新しい発見をしていくだけだ。」

と加木さんは言った。

彼女は「そう」と言って、それ以上は何も聞かなかった。

そして、真子さん達と合流し、本屋を後にする。

その中で、私の中では、本多さんのことについてや、色々なことが気になって仕方がなかった。