創作学についての説明⑥

今回もまたはじめていきます。

創作学は何度も言ってますが、ゆるす学問です。

少し前に、自由にできるコミュニケーションアプリをしたんですけど、そこでは、もうほぼ自由に会話されてました。

悪いことも含めてです。申し訳ないことで‥、自分も知識ひけらかしの自由さをしてたので人のことは言えないですが、暴力的、性的なことに対して、ネットでは言える場所となってる気がします。

勿論、全てが悪いこととは思いません。しかし、方向性がどうなのだろうか‥と。

どちらかというとそれらは悪い方向のものであるのは変わりありませんし、不快に感じる人も少なくはないでしょう。

これの理由として矢張り、【自由さ】というものを失ってる気がしています。

自由に会話できるはずなのに、その一方行に偏ったことを話す。もっと、話せないけど、ネットでは話せるみたいなこと沢山あるだろうと。

自分中心での考えですが、これは矢張り、自らに制限というものをかけてるからだと思います。学問的縛りから解放されない。

たとえて言うならば、毒親に育った子供が、はなれた今でもそれによって苦しみ続けられる。トラウマなんかもそうでしょうか。

学問に対しても同じで、間違いか、正解かが重要視されます。学問でなかったとしても、偏りがなければそれは間違ってるか?正しいのか?という話になってしまう。

否定されるのが嬉しい人間なんてそんなに居ないでしょう。

学問によってとらわれてしまう‥。だからこそ、とらわれずに生きるという、創作的価値観が必要になります。

学問はとらわれてやるものじゃないし、楽しいと思えば突き詰めていけばいい。苦しみながらやっても、ほとんど何も得られないでしょうし‥。

本の解説で、こんな話を聞きました。自由から逃げて最終的には、亡くなった人。本当の自由を手に入れ無気力になる人とか。

しかし、それは学問的価値観が共有された今だからこそ、そう言えることだと思います。

心的に制限されてる人が、いくら自由になっても、その心的制限はそのままで、嘘の自由に生きなければならない。

思えば、この世界には、制限というものが多く出回ってる。

大きなところで言えば、統計学

これは学問的ではとてもいい道具だと思いますが、人間の心に干渉してくると、苦しめてしまうものです。

普通が求められる社会に於いてはとても素晴らしい道具です。しかし、この世界、そんな人ばかりではない。

ズレてる人も沢山いる。

10代はこんな人、20代はこんな人と決めつけるのでなく、もっと抽象的で自由に‥

具体では、正しいことが得られても、人の心を傷付けてしまうかもしれない‥。

だからこそ、僕は抽象的こそ、今の社会にとても必要なものだと思います。

感想の自由というものもあるでしょう。本当に自由な場所を作るのなら、創作学のような、ゆるしの価値観を共通認識とした場を設けることが大切だと思います。

僕は創作会と構想してますが、似たようなものがあるようです。

もちろん、困ってることじゃなくてもいいんです。どちらかに偏ってないし、困ってない普通の意見、発想でもあっていい。

ゆるしの学問、それが創作学ですから‥。

ここまでで終わりです!