こんにちは。
今日はこれについて、創作学をまじえて考えていこうと思います。
これってとても面倒じゃないですか?もちろん、楽しい時も嬉しい時も沢山ありますが、よく嫌になる時も多いです。
考え方の違いや、自分の考えを否定された時、上手く伝えられてるか不安になったとき。(勘違いされることとか)
様々あります。
これが何故あるのか?
それは矢張り、人がそもそも、一つの選択が絶対的に正しい、選ぶことが正義だ。のような教育、生活をしてきたからじゃないのでしょうか?
テストでは一つの答えを選ばなければいけない。運動でも選ばない選択はない、道徳や、他のものすらも“選ぶ”ことが重要視されます。
道徳では感想を書いてきました。これもどんなことを考えたか、思ったか、それを選ばないといけない。
芸術でさえも、選ぶことが重要です。何を作るか、何を考えるか。物語ですらも選ばないといけない。
本当にそれでいいのか?いろいろな世界に広がっていく。少し物語が違かっただけでも、色々な世界がある。
“選べる”ことは自由です。しかし、“選ぶ”ことは自由なのでしょうか?
いいえ、選べることは自由であっても、選ぶことは自由ではなのです。
選べることは色々な可能性がある事であり、それを存在していることを許す。
しかし、選ぶことは、他の可能性を排除していることであり、それは自由でなく、制限の世界に身を投じることとなります。
人を介した“選択”であれば、前にこんなことを言ったじゃないか、今とやっていることと違う。そう言われるでしょう。
だからこそ、全てが認められる自由から、制限の世界。選んだそれに変わってしまう。
しかし、どんな事であっても、見方を変えればどちらも存在している。スポーツが好きな人は、逆にそれが嫌いになる瞬間も事実あるでしょう。
どちらも存在する可能性がある。選ぶことが逆に制限の世界に身を投じてしまうことなのです。
その“選ぶ”ことは、人を不自由にさせる。人間関係もそれがあるため、面倒になってしまうのです。
例えば、自分が悪いことをしたとしましょう。それ一つだけでも、その人にとって、この人は悪い人だ。と認識されてしまう。
そこには“選ぶ”ことに於いての害悪が生じる。もちろん、“選ぶ”ことにはより良い部分がある。しかし、“選ぶ”ことが重要視され過ぎていないか?と疑問視しています。
その人にいい部分があってもいい。可能性をつくりだすこと。
それは人種差別であったりの“差別”をなくす方法であると思っています。
それはもちろん、差別される側の考えも変えることでもあると思います。
それができるのは創作学という概念です。
すべての可能性を認め、どんな考えでも受け入れる。その懐の大きさ。それこそが創作学。
すべてを受け入れるとは、そもそも存在していない、おかしいと言われる考えもすべてを受け入れることです。
逆にそれは選ぶことも選ばないことも同時に認めること。
全てが平等に正しければ、そもそも、偏見などおこらないし、悪い見方を認めることもない。
不細工と言われたら、イケメンという事実も同時に存在していい。
それこそが創作学です。
これがあれば、きっと人間関係もよくなる。僕はそう思っています。
ちなみにこれは“選ぶ”ことをしてはいけないと言うものではありません。選ぶことは大事です。
しかし、選ばない選択肢も同時に大事だと伝えたいのです。
一回選べば、それを絶対的に守らなければいけない。それに囚われ続ける。それは制限の世界でしかなく、ある意味で過去の自分や、その選択に奴隷となる。
そのように感じたんです。全てを受け入れる考え。人にはそれが必要だ。
そして、自分がより良い選択を取るには?
あくまで選ぶことに制限があったとしても、その人が本当にそのことを求めるならば、その人はきっとその選択をすることでしょう。
今日はここまでで終わりにします。