全てが偏見でもいい。

こういう人はこういう性格だ。とか、ネットには根も葉もない噂や、偏見が多くあります。

でも、これって案外仕方ないことなのではと思います。

子供の頃から学校で、勉強をそのまま暗記のように教えられてきました。

自分で作るより、前からあるそれらを。

例えば、一度、苦しいことがありました。

それはその人の記憶に強く残ることでしょう。他に起こった何かはほぼ無視されると思います。

もちろん、そうすぐにそうなったりはないでしょうが。

で、何が言いたいのか。人間には創作性が足りないんだと思います。

僕自身も、こう考えなくてはいけない。こうしてはいけないなんていくらでもあります。

だからこそ、僕含め、全人類に必要なのは矢張り創作性なのではないかと思います。

そのために必要なこと。

それが、全ては偏見でいいと言うことです。

例えで言うと、1+1=2、1+1=10、1+1=田 算数の世界では、1+1=10、1+1=田は間違いとされるでしょう。

でも、他の場合を使えば事実になるんです。

IQだったり、漢字を答えにするものであったり、二進法の世界(創作の中)であったり。

その一つ(算数)の世界では正解であっても、他の世界ではまた別の答えがあってもいいんです。

それはつまり、全てが偏見であるともとれます。

ただ、問題は、その一つに限って、これはこうしようと変えてしまうのは良くないと言うことです。

つまりは、全ては平等に価値があるということです。

例えば一つの物語の世界で、このキャラはこうした方がいいと書き換えてしまったり、勉強の中の何か単語の名前を変えてしまおうとか。(勿論、それは必要に応じては中で変えられるのかもですが。)学ぶ内容そのものを間違ったものにとか。

それらは良くないと思います。

あくまで、創作の中としての自由。

それを僕は主張したい。

創作の中であれば、明らかに間違った理論でも、偏見でもそれらは存在していいんです。

理想を目指せる場所こそ、創作の世界です。

全ては同時に許される。対義語であれなんであれ。(自分の身長が高い事実と低い事実が存在していいみたいな。)

ただ、どうしたらそんなことができるのか?

つまりはこれです。

全ては偏見である。

学問も何もかも。創作的、広い面から見ればただ偏った見方に過ぎない。

だからこそ、必要になってくるのは、自分にとっての理想を目指すことだと思ってます。

一人一人が、創作性を持ち、自分の求めるそれらを目指せれば、きっと理想の世界が作れる。

僕はそう思っています。

今日はここまでで終わりです!