勉強をする意味について

勉強には意味がない、勉強には意味がある。さまざま意見はあると思いますが、僕の考えを書いていこうと思います。

僕は、学校の勉強には意味がない。とおもいます。

その理由として、結局、そもそもやらせるという教育法では、自主性なんてうまれないし、勉強は楽しい部分もあるのに、嫌いにさせてしまう要素が多いように感じます。

特には、人間関係による、バイアスって言うんですかね?

勉強がめんどくさい、考えるのが嫌だとか。

それによって、変な偏見がついても良くない。特に、ことわざとかで思うのは、経験してみないとその事ってみにしみてわからんのですよ。

自分に関係ないことだったらほとんどみにつかないし、ただの拷問でしかないと思うんですよ。

興味のない行くかもわからない地名とか覚えてなんの意味があるんですか?

それなら、興味のある勉強について深堀して行く方が理想的なような気がします。

あくまで多くの人が語る、勉強の意味って言うのはどんなことでもつけられて本当に意味があるとは言えないものになってる気がします。

無意味なことに対する意味とは、あくまで自分でつけることであり、他人が意味をつけるものではないように思うんです。

そもそもが、嫌なものに対しても、肯定的に見えるよう、一つの好きな見え方を追求していくほうが理想的で

例えば数学が好きなら、数学の世界から見えるそれとはどんなものか?

物理から見える世界とは?

そういう色々な考えを世界に適応していって、楽しくしていくとか。

嫌なことをするにしても、やらされてると思うような教育になってる以上は上手く行く気がしていません。

モンテッソーリ教育では、自主性尊重を目指しています。

本当に効果があるかは分かりませんが、あくまで、自分の意思で何かをするというのはとても重要なことのように思えます。

学校の勉強もまた、自主性を尊重しない、宿題だらけだったり、何かをやらせることを多くしてしまえば自主性無視となる気がしてなりません。

テスト自体も、いいもののようには思えないんです。

そこで求められているのは、与えられた情報から、自分の知識の中の情報を取り出し必要なものを使っていく作業であり、それは全く無から有をというものではないように思います。

多くの人が、勉強を教えて。と言っても、分野を指定されないと教えられないと答えることになるでしょう。

それはつまり、分野を指定されることによって、知識が引き出されるということであり、無から何かを得るということではないのです。

あまりにも、勉強を増やした方がいいとか意見を目にしますが、それで本当によくなるかと言われたら矢張り分からない。

それによって負担となり、自殺者が増えれば、結局、良くなったとはいいづらいでしょうし。

そもそも、勉強を増やすことによって、その人達が頭がよくなるとかそういう根拠はどこにあるんでしょうか?

道徳の授業をしましたが、よく記憶に残ってません。

勉強なんてそんなものです。

それよりも、創作性の方が、人間にとって重要な気がします。

例えば、〜をするのがかっこいいとか。

そういうのって根拠はないじゃないですか。だけど、その人にとって、それは真実で。

不良とかもそうでしょう。そういうのがかっこいいと思う人には真実なんです。ほかにとってはカッコよくなくても、その人にはそれが事実なんです。

だからこそ、創作性。無意味に勉強を増やすよりかは、創作性を大事にすること。

僕はそのように思います。

ある人が〜と言ったからと言って、それが事実とは限りません。

だからこそ、全ては平等に正しい。その考えが許される創作性。

どんな時に於いても、創作性は人を守り、喜びを与えてくれるもの。

色々なカッコよさがあっていいじゃないですか。明らかにかっこよくなくても、カッコイイと思えたら、それら全ては正しいこととなるんです。

そもそもが、創作学という考え方自体が学問に反する(詳しく書けばそうではないが)考えなんで、勉強には意味がなくて意味があると言えるんですが、基本的に、創作性があれば人は流されなくてすむように思います。

それは知識がどうとかそういう話じゃなくて。

ちゃんとは話せませんでしたが、とりあえず、ここまでにしようと思います。