この世の真理について

創作の中では、全てが真理である。それは事実だと思っています。

しかし、逆に、この世界の真理は何なのか?

僕は一つ、中立とか、真ん中的なことが真理だと思います。

ある意味、それは、普通と言うのでしょう。

物語の中で言いましたが、その普通とは、もしかしたら世間一般で言われる普通と異なるものかもしれません。

というのも、平均以上とか、統計で言った真ん中を目指すとかそういうことではありません。

それらは他人とともに成り立っている以上は、全体としての“普通”があるからです。

それはどんなに一人の人が頑張ろうと、絶対的な全体としての普通は変わることはないからです。

例えば、二人の人が居たとします。

毎回勉強で1位をとるひと。そして、もう一人が、勉強で二位を毎回とる人。

普通に考えれば、その二人の人は凄いみたいになるでしょうが、その二人しか居ない世界では、“できる”と“できない”がはっきり決まってしまうのです。

それって本当に普通と言えるのか?

不変なものではないのです。

だからこそ、全体としての普通。これは揺るがないのです。

人間関係でも二人の人が居ることによって普通が作られることになります。(二人で一つみたいな)

勉強でも、できない(している人)できる(参考書)などによって、段々と普通が近付いてくる感じです。

その2つがあることによって成り立つ。それはつまり、全体としての普通であり、相手が居ないと成り立たないものになってしまう。

つまり、一人の人間しかいなければ、その人自体が普通であることになります。

色々な人が居ますが、僕が考えていること。

それは感情的な普通を目指すことなのではないかと思います。

現在の多くの問題は、この感情的な何かが絡むことが多いような気がします。

というのも、相手が間違ったことをした→いらつくとか。嫉妬とかも感情です。

悪口を言うことだって感情が含まれてる。

快楽をということも、感情的な楽でしょう。痛みだって感情があります。

だからこそ、どちらもあっていい。その同時存在の許容。つまりは、相反する2つがあって成立する普通という概念を。

(相反するものといえば、戦争と平和が存在しないといけないように感じますが、平和の対義語は戦争だけではないです。僕の考えでは、スポーツですら、対義語すらなり得ると思っています。なので、戦争は無理に存在する必要はないと。)

人が気にするべきは、一人の中にあるポジティブな感情と、ネガティブな感情どちらも作り出すことであって、他者との関わりに於いての普通はほぼ不可能なのでしなくていいと思うんです。

つまりは、他人との感情的な依存をなくすこと。

それを考えています。

そして、中立がこの世の真理だからこそ、偏らないことを考えてます。

そのためには、創作がとても重要です。

何故なら、批判されていること、肯定されてること。その反対意見がない場合、その2つを否定するしかないからです。

だからこそ、創作的に正しいかどうかよりも、新しく考えを作り出すこと。

それができる創作を。

それは中立が作れるいい武器であり、ともに使えることで、どこまでも進んでいける。そう思うんです。

そして、世界には、外側に多くの求めるものがあります。衣食住、娯楽その他色々。

けど、それと同じくらい、心とか精神世界の方も大事にする必要があると思うんです。

それは、つまり、僕の考えている普通。同時存在の許容的な人間の考え方。

そして、直接的なことと、抽象的なこと。どちらも存在する。僕の考えでは直接的なことの方が存在しやすいので、意図的に抽象的なところも作り出せる。

それが大事な気がしています。

難しいですが、どちらも存在できる。全体としての中立を。

僕は創作と中立の2つの考えであれば成し遂げられると思っています。

ここまでで取り敢えず終わりにします。