都合のいい部分しか見ない。
これは純粋にいいと思います。
都合のいい見方にもさまざまあって、相手を介するものとか、ネガティブさ、ポジティブさポジティブでありながらネガティブ、ネガティブでありながらポジティブとかさまざまあります。
それは必ず悪い訳ではないと思うんですよ。
どういう事かと言うと、与えられた課題。それに対して肯定的に見る。そういうのって悪いのでしょうか?
結局、嫌な部分を見てないだけで、都合の良くみているに過ぎないことになります。
そして、勉強についても、好きだとか、面白いって言う人は都合の良く見ていませんか?必ず嫌な部分はあるはずです。
でも、それって都合の良くみているはずなのに何も言われないし、逆にいいことになるかもしれません。
反対に悪いことは、人生については悪いことしかない、死ぬだけだ。というのも、都合のいい部分を見ていると考えられます。
いい部分は少なくともあった訳で、都合のいい“悪いこと”を真剣に探そうとしてるんです。
カラーバス効果とかから、悪いものばかりを気にしてると悪い思考になってしまうかもしれません。
フェイクニュースとか、ネガティブなニュースばかり見てたら、都合のいい、そういう情報見てしまいますよね。(僕自身もなるべく気を付けたい‥。)
結局はいい部分もあり、悪い部分もあるということです。
悪い部分に注目したくなりますが、あくまでそれは自分の都合のいい見方をしてるだけであって、より良いものではないのです。
都合のいい意見についてもう少し語りますが、目の前にあったとても美味しいこと。それはいいのか?
これについては、矢張り、都合のいい意見というのは、自分が気付こうとしないと得られないと思うんです。
それはつまり、都合のいい意見があったとしても、その時の気分や、元気のなさとかで都合のいい意見として見られないことがあると思うんです。
何故なら、人は絶対的なものを得るとか。
そういう悪く都合のいいものにハマってしまうからだと思うんです。
絶対的なものって、ネガティブなんですよ。
例えば、好きな人。誰かに渡したくない、失いたくないと思ってるところはありますし、その人ばかりを考えてしまう。それってある意味、ネガティブとも取れるんです。
芸能人も一種似てるところがあって、自分以外のその人に左右されてしまう。それはとてもネガティブな関係と言えるでしょう。(批判とかに過剰に反応してしまうとか。)
お金についても、あればいいんですが、なければ結局ネガティブになってしまう。
こういう部分で、そういうその人にとって絶対的なものは結局ネガティブなので、大事でないものとした方がいいと思うんです。
そういう偏った都合のいい部分しか見れなくなるので。
良薬は口に苦しとは言いますが、いい意見の中にも、いい考えというのはあるし、そもそもがいい事なのに気付けてないだけなんですよ。(薬だって美味しいもの増えてきてる印象ですし→昔は知らない)
ゲーム自体も、長く続けてたのがめっちゃ変わって改悪と言われることもあるでしょう。
その大きく変わる前、いいところをちゃんと見れていたか?
いい部分に気付きづらいからこそ、そういう言葉が真実のように聞こえてしまう。
でも、その、良薬は口に苦しが真実だったとしても、その逆の良薬は口にいいみたいな言葉も存在していいんです。
苦し〜自体も例外とか、違う部分はある訳ですし。
つまらは僕が言いたいのは偏った都合のいい部分ではなく、気付きづらいけど、都合のいい部分を見ることなんです。
都合のいい部分を見るにも、悪いところと、いいところがある。
僕は、それを、創作に期待しています。
本当に都合のいい意見というのは、外側ではなく、自らが作り出すものでもある。
外側にある都合のいい意見を待つよりかは、自らで作り出した方がはやいところはある。
人それぞれが理想の自分を追いかけられるようなそれになることを望みます。
ここまでで終わりにします。