常識を敢えて肯定してみる

常識という言葉。物語の中では否定されたり、そもそもそれを聞くとなんか嫌なイメージがありませんか?

特に、アプリとか、ブログには常識クイズみたいなのがあります。

知らなかったら恥ずかしいみたいな。

そういうの聞くと、どうせ当たらないし、ただ嫌な気持ちになるから‥と避けてます笑

更にはこれを知ってるのは常識だ、こんなのも知らないの?みたいな言葉として常識が使われる印象です。

そもそも、常識とは何なのでしょうか?

例え、その人が常識と言っても、共通認識としてそれがなければ、その人の常識でしかなくなります。

僕が〜を常識と言ったところで、そんな訳無いだろうみたいに否定されてしまうでしょう。

まぁ、常識が何なのかはさておき、本題に入っていきましょう。

常識はあったほうがいい。

僕はそう思います。

つまりは、一つの世界に於いて、この考えは正しいみたいな、その世界だけでの真実を作ること。

数学とか、その中で学ぶことはそもそも、数学という一つの分野に於いては常識だと思うんです。用語もそれらも。

そういうのはあったほうがいいと思います。

この世界は絶対的なものがないと人が言っておきながら、絶対的なものが作られやすいものです。

前に書いた、常識クイズ、例えば漢字だったり。でも、英語とか使ってる人の方が多い(多分)から、それって万人に共通するものじゃないんです。

つまりは、常識とは、一つの分野に於いての真実であり、不変的なもののように感じます。

だからこそ、それはあってもいい。と思うんです。  

あくまで考えることは、常識クイズとは、その人の世界での常識であり、外部とはほぼなんら関係ないものと捉えられると思います。

だからこそ、無理に他人に合わせる必要はなく、自らの常識を作ること。

野球とかも、バット使っていいとか常識でしょう。けれど、空振りが多かった方が価値みたいなルールに(絶対決着つかない笑)したら、それも一種、その世界での常識となるんです。

それは適応でしかなくて、自分自身の常識とは違うもの。

数学とか、国語とか、社会とか。それぞれ違う常識があるので、無理にそれに染まる必要はなく、その世界で本当に活躍したい、頑張りたいのなら利用し、そうでないなら、自分自身の常識を大事にすることが理想的なのではないかなと思います。(学問も、会社もそれぞれ多分価値観違うんだから、無理に染まる必要ない。)

僕自身はどちらかというと、絶対的に常識ない人間ですが、常識とは、多様性を受け入れる上で重要であって、無理に染まる必要はなく、理想を目指すためにそれは利用するのがいいんじゃないかな‥と思います。

ここで話した自分自身の常識ですが、凝り固まった‥みたいなことを考えてしまいますよね。

でも、色々存在していい。同時に考えが存在していい。という、創作学的価値観。

それがあれば理想を目指していけると思います。

あくまで、その空間の、例えば会社とか、学問とか。結局、理想的な常識であったほうが、いいんですから、いいものがあったら変えて行ってもいいんじゃないかなと思います。

なるべくみんなが理想的なものへ。

あんまり肯定できてませんが、多様性を受け入れる(学問にそれぞれ常識や、価値観があるように。)ためには矢張り、理想的な常識を考えていくことがいいのではないかなと思います。

創作的に人が過ごしていけたらと思います。

この話はここまでで終わりにしますね。