創作の矛盾について

僕はよく他のところでも、矛盾したことを平気で言っています。

例えば教えるは悪だ。とか。自分自身が教えてる(悪)じゃないかって話なんですけど、それでもオッケーなんです。

理由としては創作であるから。

何か自分の正義を書こうとするとき、いつも決まって現れるのは悪の存在です。

例えば、タメ口で話すのは気分が良くないから、敬語が必要だ。みたいなこと。

けれど、タメ口と敬語しか話すことはないのか?と言われたらそれは少しおかしいと思うんです。

少し関係ないんですが(見返してみたら全然関係なかった笑)、つまりは、存在しない方がいい“悪”という存在を書いてる以上は存在していいものとなってるんです。

なくなった方がいいのに、一々、これは悪いことだ。みたいに存在を肯定し、言うのは矛盾してることになります。(内容が否定であっても)

これは何が言いたいのか?というと、人間が正義であるためには、自分に悪を作り出さなければいけないということです。

外側に悪を作り出すのではなく、自らの中に正義と悪を。

悪と言ってもさまざまあります。けれど、なるべくは外部に損害を与えないものとしたいのですが、どちらも、自分の意図でそれを作り出せれば人は外側の悪にそまりにくい存在になると思います。

どちらも肯定すること。存在していいとすること。悪の中でも、自分の意志で、これは悪いことだけど許せるようなものを。

それはつまりは、外部に迷惑はかけないけど、悪いことのように感じる。けど、自分的には許せる。そんなものを作れることです。

悪と正義を自分内に作れること。

だからこそ、教えることは悪であっても、存在していいし、していい。

悪いこととするからこそ、外側の悪に染まりづらくなると思うんです。

そして、この考えは、すべてを受け入れる創作的思想。

なんでも許してくれる存在、創作。

矛盾が生じても、存在していいじゃないか。

物語の中でも、サスペンス、日常系さまざまあります。存在して良くなければ、どちらか一方しかないってことになります。

矛盾もこの中では共存できるんです。