勉強について思うこと

最近、考えることが多かったので、今回はこのことについて話していきます。

創作と対極にありそうなこの勉強ですが、創作的には存在して良くて、一つ一つは特別なもので尊重されるべきものであると思います。

創作自体も、間違いだけを〜みたいな印象がありますが、もちろん正解も書いていいんです。

創作が勉強の対極にあるとは思いません。僕の考え的には、本当に何もない世界。それこそ創作の対義語のように思います。

それはさておき、勉強について書いていきます。

間違いも、正解も正しい。僕は他のところでそれを書きました。けど、それでは、勉強はなんのためにあるのか?って話になりますよね。

でも、それは、精神世界、物語の中、それら全てを含めて正解です。

それは会社(学校でもいい)によって、空気やルールが異なるように、全てを含めるならばそれら全ては事実であってもいいことになります。

不完全なところもありますが、現実のルールとしては、勉強はより良いものとなることでしょう。

別に壊す必要もありません。

しかし、あくまで、精神世界、(全ての人の)自分の心の中は創作的に、自由なそれであった方がいいように思っています。

このことについて、勉強の例で話していきます。

勉強には意味がある、そんな議論を聞きました。もちろん、考えを持ってないからか、簡単に決着してました。

一つ実例みたいなの出せば、確かにその通りだみたいになってしまうのでしょうか‥分かりませんが。

ですが、矢張り、この考えが出てしまってるのは問題で、自らで勉強に意味を見いだせない、そんな環境になってしまっているような気がします。

意味はあくまで自分で作るものであって、人がこれはこんな意味があるとするものではないと思うんです。

例え、こんな意味があるんだよって教えられても、そこからは新しい考え方はうまれないし、やらされている感覚からは抜け出せないでしょう。

そもそもが勉強の意味というのは、目的があってはじめて、知識がついてくるところもあります。

例えば、権力者なら、昔の事柄から昔のことと同じてつをふまないようにと考えると、歴史の問題や、故事成語などは記憶に残りやすいかもしれません。

理系だって、いい判断をするにはという面で、結構確率の問題も使えるかもしれません。

目的があってはじめて、これはここに使えるかもしれないってなるでしょう。

偉人にも、必要なことを取り入れていくみたいなことをした人がいるそうです。関係なさそうなところでも、どうしたら良くなるかを突き詰めていけば共通する。

そんなこともありえます。

興味がなければ、中々記憶に残りづらいですし、時間が経てば忘れてしまう。見につかない学問になってしまうかもしれません。

それでは、矢張り、なんのための勉強か?それが分からなくなってしまう

もちろん、目的を作る必要はないと思います。

でも、自分が意味をつけることはできます。

それこそが、理想的な勉強との関係性を築けるものと思います。

これは他のところで言ってるような、人には創作性が足りない。創作性が必要ということなんですが‥。(それは芸術をした方が〜情操教育を〜みたいな話ではありません→このことについては他のところで話します)

さっき言った、勉強の意味について考えること。

意味が無いと言ったら、それにイライラしてしまって反応するとか、意味があるからしろとか。

矢張りこの点は問題かな‥と思います。

共通認識として、勉強=嫌なものとなってしまえば、理想的ではありません。

そして、勉強を、人に勝ちたいから、100点を取るためにするみたいな考え方は理想的ではないと思います。(これはもちろん、僕自身も、昔、よく考えてたし、そうしようとか思っていた。)

結果のために頑張るのではなく、過程を愛することを忘れてしまいやすいと思うんです。

勉強とは、一人の人とも考えられます。

偉人や、生きている有名人のように、嫌われてたり、好かれてたり。

それって、人のようじゃないですか。

もちろん、勉強はそれぞれ、はじめをたどれば人がつくったものだと思うので、人だと言っても間違いではないと思います。

その通り、もし、人だと仮定して見ましょう。

勉強くんというあまり仲の良くない同級生。勉強くんについてクイズがでるから教えてと、君のことは興味ないけど、クイズは正解したいからとそばにいったとします。

本当にその状態で仲良くなれるでしょうか?多くを理解したりできるでしょうか?

ある程度はできたとしても、それは全てではないと思うんです。

アニメの中には、スポーツ用具と友達になるみたいな話がありました。

それは勉強も同じなのではないでしょうか?

とても勉強頑張ってる人は、本を何度も繰り返し読んでボロボロになってるとも聞きました。

あなたのことが本当に知りたい。みたいな。

僕は数学のテストで100点を取ったことがあります。

けど、そのときは点数のことなんて考えてませんでしたし、(そもそもが低いところだったのはある。)どちらかというと、先生の話ではなく自分一人で授業聞かずにやっていた。

ある意味、今考えて見れば、自分で意味をつけれてたところはあるんでしょう。

それはさておき、何かを達成したい、誰かに勝ちたいみたいな目的はなかったように思います。

大事にしたいのは、その学問に対して、あなたのことが知りたいとか思えるか‥僕はそのように思います。

それはある意味で、さっき言った学問と友達になるって話なんでしょうけど。

もちろん、目的として、それをたてるのはいいと思います。

だけど、それで成し遂げられたとして、ずっとそうでなかったり、一時的なものとして終わってしまったら悲しいでしょう。

最近はソフト打ちで〜との話を聞きました。(不正に対して厳しすぎる気はしますが→そのことはいいとして)

ボードゲームのプロなどはとても時間を要するので、とても苦しい時間を過ごしてるでしょうし、逆に、楽しく過ごせてるところもあるのでしょう。

けど、矢張り、ソフト打ちで強くなっても、それは永遠ではないんです。

一時的‥。

苦しい局面のとき、自らに喜びや、希望を与えられなければ、矢張り苦しいまま何だと思います。

だからこそ、結果を重要視するのも大事ですけど、過程も同時に大事にする。それはとても必要なことのように思います。

苦しいままで勉強をしても、その勉強はすぐにあなたのもとを去っていってしまうかもしれません。

だからこそ、自らが喜びを見出してあげる。自分にこそ、意味を与えてあげる。

それはもちろん、無理なものに意味を与える必要はないと思います。

けど、本当に、必要だと思うことには、意味を与えてあげてもいいんじゃないかなと思います。

とりあえず、ここまでで終わりにしますね!